「信長は美濃の故・斎藤義龍の未亡人が所有する壷を取りあげようとしつこく督促した。これに対して未亡人は『今回の動乱で紛失して差し上げられない。それでもなお責められるのであれば自害します』と抗議したというが、この際に信長の正室・帰蝶(斎藤龍興の叔母)はこの未亡人に味方して『妾(わらわ)たち兄弟姉妹16人や美濃の有力国人衆17人、合わせて30人以上が自害しますぞよ』などと信長を脅しつけ、とうとう壷は紛失ということで信長もあきらめ、今日無事に一件落着とあいなった」
岐阜城とその城下は、この話題で持ちきりだったろう。
信長を怖れない女性たちにも驚きだが、ここでのポイントは信長が執着した「壷」が恐らく茶壷だったろうという点。そりゃそうだ、ただ単に壷そのものが好き、というならそれは壷愛好者。そう、それは壷フェチ(笑)。信長が夜な夜な壷を抱きしめ愛でていたなどという記録は無いし、茶湯数寄のための壷だからこだわったと考えるのが自然なのである。
美濃は瀬戸焼の産地。すなわち、茶器や茶湯に熱心な文化がある。古田織部や牧村兵部といった「利休七哲」に数えられる茶人を輩出したのも、そんな土地柄のゆえだ。
信長と5年も争い続けた好敵手・斎藤義龍もおそらくは茶湯に親しんでいたに違いない。未亡人は夫・義龍遺愛の茶壷を大事に引き継いでいたが、茶器好きの信長が攻めて来るとなればこの形見の壷もきっと取りあげられるし、そうなれば義龍の名誉も汚されると壷を隠してしまったのだろう。
信長は4月に京で金銀や米、銭はたっぷり有るから、として「名物狩り」を実行して「初花茶入」「富士茄子茶入」「蕪(かぶら)なし茶入」などの名物茶器を買い上げたのだが、今井宗久に火を付けられた茶道具熱はそれで満たされることない。岐阜に戻ってからも斎藤義龍未亡人の名物茶壷に目を付けてむりくり召し上げようとしゃかりきになった挙げ句、正室からねじあげられ織田家がまっぷたつになり天下の失笑を買うような大騒ぎになってやっと諦めたという次第だ。
〝超インフレ〟で茶器代が足りない!
とにもかくにも、信長の茶道具執心は常軌を逸していた。そのさまたるや、まさに「ルール無用のアウトロー」。
なんでかって? よし、その理由を述べよう。
彼は「名物狩り」の1カ月前、有名な「撰銭令(えりぜにれい)」を発して銭の交換比率を定めたが、その折りに「追加」で「米を銭・金銀の代わりとして決済に使うな。茶道具を100個以上買う場合は金銀で決済しろ。金銀が無い場合は規定した良質の銭で決済しろ。違反したら、その者が住む町全体を処罰する。違反者を密告した者には懸賞金として銭5貫(50万円弱)を与える」とも触れている。
ところが「名物狩り」を実行した際には、買い上げの代金支払いをどうしたと思います? ここのところ、『信長公記』の原文のままでお届けしましょう。
「金銀・八木(はちもく)遣(つかわし)」――――――。
八木というのは、米という字を分解したもので、つまりは金銀でも支払ったけど、米でも払ったことになる。そう、信長は自分で米決済厳禁、金銀・銭での決済に限る、背いたら厳罰!と言っておきながら、その舌の根も乾かない翌月に自分はシレッと米も決済手段に使ってしまってるわけです。信長が自身を裁けば、岐阜城下の井ノ口の町も住民全員信長ともども成敗されなければならない理屈。
それをアッサリと全スルーして自分だけは米で払ってもOK、というんだから支配される側からすればたまらない。今だったらネットで大炎上、袋だたきの末にコメ欄閉鎖になるような事案です。
でもね、好意的に考えれば、尾張・美濃・近畿を制圧し本願寺や堺、法隆寺と奈良の町からトータル2万6225貫文(23億円前後)の矢銭(軍用金)を課してもまだ信長の金銀・銭は茶器代には足りていなかったということなんだろうね。堺と近江の大津・草津に代官を置いて流通税を取れるようにしても、まだ足りなかった。