それぞれが迎えた最期
まず築山殿が殺された。1579(天正7)年8月29日である。
「岡崎城から浜松城に向かい、佐鳴湖を船で渡って入野(浜松市)の北富塚へ行き、富塚御前谷と呼ばれている地点で、家臣三人の手で斬殺しました」との報告を受けると、家康は、こうぼやいたという。
「なんとも配慮に欠ける。女なのだから、もっと違うやりかたがあったのではないか」
違うやりかたとは何か。家康の本心の叫びは「築山殿をどこか遠くへ逃がしたかった」ように聞こえるが、もしそうすることを望んでいたのなら、なぜそうさせよと命じなかったのか。いや、それ以前に、なぜ信長に2人の命乞いをしようとしなかったのか。戦国大名としての誇りが許さなかったのか。謎は謎を呼ぶばかりだ。
築山殿の遺骸は、胴体だけが殺害された現場近くの西来院に埋められ、首は岡崎へ運ばれた。
家康は悶々とした日々を送り、築山殿が死んだ4日後の9月2日には、心労がつのって床に就く。築山殿が殺害された御前谷には「大刀洗の池」と記した碑があるが、池は今はない。
信康が自害したのは、築山殿殺害から13日が過ぎた9月15日だったが、その間、家康は煮え切らない態度に終始した。自決までの信康の謹慎場所を、前述したように岡崎城から大浜城へ、大浜城から堀江城へ、堀江城から二俣城へとめまぐるしく移動させたのだ。
このことは何を意味するか。城を移す間に信康を逃走させたかった。それが家康の本心だったのではないか。
信康の死後、徳姫は、いつからかはわからないが、京都の烏丸中御門(油小路)にあった本多忠勝の下屋敷に移り住み、78歳で死んだ。彼女の法名は「見星院香岩寿桂大姉」(けんせいいんこうがんじゅけいだいし)である。見星院という法号から想像できるのは、いつも夜空の星を眺めている孤独な姿である。それ以上の説明は必要なかろう。
四天王の処遇である。本多忠勝は、上野国大喜多藩10万石を経て、関ケ原の合戦後には重要拠点である桑名藩15万石を拝命、榊原康政は上野国舘林藩10万石、井伊直政は箕輪藩12万石を経て、関ケ原の戦い後には佐和山城18万石へと大出世した。
酒井忠次は、事件後に隠居して息子に家督を譲ったが、三河国吉田城の石高はわずか3万石に放置され、関ケ原の戦いの後も加増されなかった。見かねた忠次が加増願いに行くと、家康は「お前でも子は可愛いのか」と強烈に皮肉ったという。