2024年12月9日(月)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年6月18日

徳姫の暴走〝復讐劇〟

 信康は武将としての評判が高く、家康は後継ぎとして頼もしく思っていたが、性格に難があることを家康は気づいておらず、わけもなく人を殺すなどの蛮行を繰り返していた。

 見かねた徳姫付きの侍女が諫めると、信康は逆切れし、押し倒して刀で口を切り裂いて殺すという残忍な事件もあって、徳姫を悲嘆の底に叩き込んだ。

 そんなある日、家康の老臣酒井忠次が徳姫の侍女の1人に惚れて、「妾に貰い受けたい」と徳姫に申し入れてきた。侍女は30過ぎの美人だったが、酒井は「徳川四天王」の最年長で1527(大永7)年生まれで52歳。若い徳姫から見れば、好色ジジイと思えたろう。

 徳姫は、そのとき、酒井が近々信長に良馬を贈るために安土へ行く予定になっていると聞いて、交換条件を思いつき、「侍女をそなたに与える代わりに、父上から築山殿と信康の悪行の数々について聞かれたら、決して庇(かば)い立てせず、真実と認めるように」と要求したのではないか。筆者はそう考えるのだが、どうだろう。

 酒井は、「事前に信康と築山殿の告発状を父に送っておき、父がそれを酒井に見せて真偽のほどを確かめたら、弁解せずに事実だといえ」と徳姫にいわれ、承知する。日頃から信康に邪見にされていた腹いせも酒井にはあったろう。

 信長は、徳姫が送った12箇条の告発状を酒井にいちいち確認しながら10箇条まで読み進め、そのつど酒井が「間違いございません」と認めたので、信長はこう言い放ったと『三河物語』は記している。

 「家老の汝がことごとく間違いないと認めるのだから、あとの2つは確かめるまでもない。信康がこういう人間なら、物にはなるまい。『腹を切らせ給え』と家康に申し伝えよ」

 この言葉を忠次が信康本人に伝えると、「是非に及ばず」と答えたという。

 忠次から報告を受けた家康は、皮肉とも八つ当たりともとれる次の言葉を口にした。

 「信長に怨みはない。身分の高い低いに関係なく、わが子を可愛く思う気持ちは誰も同じだが、信長に一つひとつ確認されたときに『存じません』とお前が返答していれば、信長もそのようなことはいわなかったろう。なのに、お前はいちいち『存じております』と返事した。覆水盆に返らず。信康は、忠次の中傷によって腹を切らせるまでのことだ」

 家康が苦悩する様子を見た信康の傳役(もりやく。教育係)平岩親吉が、「自分が身代わりとなって死ぬことで、若殿の命乞いをしてほしい」と願い出たが、家康は「犬死となるだけだ」と拒み、こう話したと『三河物語』は記す。

 「武田勝頼という大敵が存在する以上、信長にわが領国の背後を固めてもらうしかなく、信長に背くことはできない。忠次の中傷がある以上、いかんともいがたく、汝まで亡くしては恥の上塗りになる。不憫ではあるが、信康を岡崎城から追い出せ」


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