光秀が、大軍1万3000騎を率いて居城の丹波亀山城を出立したのは、前日の午後4時頃だった。一方、本能寺の信長に付き従っているのは、小姓20数人を含めて100人に達するかどうかという程度の少人数で、軍勢とは呼べなかった。
信長は、多勢に無勢を承知の上で戦うだけ戦い、負傷して弓が引けなくなると、もはやこれまでと覚悟し、寺に火を放ち、奥の部屋に入って森蘭丸に介錯させて自決して果てた。火を放ったのは首を奪われないためで、これが信長の「せめてもの危機管理」となった。
二条御所にいた信長の嫡男信忠も、包囲されると上皇が門外に逃れるのを見届けてから自刃して果てたが、一緒にいた信長の弟織田長益は「ここで自決するのは犬死同然」と逃走した。信益は、のち出家して有楽斎(うらくさい)と名乗る。その屋敷跡が今の有楽町だ。
危機対応は三者三様
本能寺の変を知ったときの三英傑の反応は、三者三様だった。おおまかにいうと、信長は「是非に及ばず」、家康は「伊賀越え」、秀吉は「中国大返し」ということになろう。
信長の「是非に及ばず」は、光秀が謀反を起こし、大軍勢で寺を包囲したと知ったときの第一声とされている。今も使われる類似語でいえば「是非もない」で、「仕方がない」「やむを得ない」「もはやこれまで」という意味合いになる。
もっと詳しくいうと、「良し悪しをいっている場合ではない」「道理に合う合わないを判断する余裕はない」「天下布武を掲げて武力で天下統一へと驀進(ばくしん)してきただけに、誰かに逆に武力で滅ぼされるのは覚悟の上だったが、まさか飼い犬の光秀に咬まれようとは」というニュアンスになろう。
一方、中国征伐を命じられ、備中高松城を水攻め中だった秀吉が本能寺の変を知ったのは、偶然である。光秀が毛利軍の総帥輝元に送った密書を携えた使いの者が、水攻めで道がわからなくなり、迷っているところを捕まり、秀吉の知るところとなったのだ。光秀が毛利輝元に送った密書は、「信長暗殺を告げ、秀吉を挟み討ちにして秀吉を葬って、天下を取ろう」といった内容だった。
秀吉は、「じっとしていたら、毛利軍と明智軍に挟み討ちにされてしまう。もはや猶予はならない」と速断して毛利と和議を結ぶと、「金をやるから速く進め」と兵士たちを煽りまくり、疾風迅雷(しっぷうじんらい)の速さで居城の姫路城へ入った。「中国大返し」である。
秀吉は、戦闘態勢を整えると、「この戦いは、殿の弔い合戦だから負けるはずがない」「敵の首を取った者にはたんと褒美を与えるぞ」といって兵のモチベーションを高める危機管理を行って、光秀と山崎で戦って圧勝するのである。
光秀は、信長を倒すところまではよかったが、人徳がなく、政権奪取後のビジョンも見えなかったことから天下人にふさわしい器とは見なされず、複数の血縁の武将から山崎の合戦への参加を拒まれ、敗走途中に落ち武者狩りに遭って竹槍で刺され、死にいたるという悲惨な結末を迎えた。