2024年5月19日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年8月8日

金平糖の値段

 三河守はかつて今川義元が桶狭間の戦い直前に手に入れた役職名。それを掲げて今度は家康が今川領を切り取っていく。永禄11年(1568年)には甲斐国の武田信玄と示し合わせて遠江国に侵攻。

 だが、彼は東にばかり力を入れている訳にはいかなかった。永禄13年(1570)3月には上洛し、将軍・義昭に麾下50頭の騎馬パレードを披露している(信長の大馬揃えに先立つこと実に11年前の壮挙である。これを見ると騎馬パレードが朝廷・将軍を「脅す」意図など無かったことが分かる)。

 一方、大河ドラマ「どうする家康」では将軍・足利義昭への礼のため上洛した家康は義昭の二条御所で拝謁したことになっていた。

京都市・足利義昭二条御所跡碑。この東側(写真手前)一帯が御所跡で、徳川家康が将軍・義昭に拝謁したのがここ。そもそも、この御所の造営には家康も協力していた

 ところで劇中で家康は、出入り商人の茶屋四郎次郎に南蛮渡来の金平糖の入手を頼み、「山城ひとつ二つと等しい値段」と言われて驚いた挙げ句に四郎次郎が何とか確保してくれたひと袋の金平糖を義昭にボリボリと食べられてしまった直後、信長から「三河にはまだ帰れんぞ」と言われ、むりやりの様に500の従兵と共に越前国へと出陣させられていた。

 ちなみに、ドラマに登場した金平糖、渡来した当初の価格は1斤あたり銀5匁と『日本永代蔵』にある。これだと1斤は600グラム、銀5匁は当時1万3000円程度となるが、江戸時代中期には5.6匁~8匁したといい、信長の時代にそれより安いなどあり得ない。

 大体原料の砂糖自体が江戸時代でも1斤30匁する時もあった。参考までに火縄銃の価格は、初渡来から大量生産化に成功した信長の時代までで実に20分の1に下がっている。

 江戸時代、国内生産化された金平糖の値段にこれを当てはめれば、家康の金平糖は1斤120万円した計算になる。乱暴な推測だが、意外とこれぐらいはしたのではないだろうか。付け加えると、紅(あか)い金平糖は白のそれより2割近く高かった。

 というわけで、次回は越前攻めから。

【参考文献】
『看羊録』(姜沆、東洋文庫440、平凡社)
『戦国大名の兵粮事情』(久保健一郎、吉川弘文館)
『企画展 戦国大名は如何にして軍需を調達したか』(埼玉県立嵐山史跡の博物館)
『流浪の戦国貴族 近衛前久』(谷口研語、中公新書)

   
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