馬1頭はそれなりのスペックの良馬(荷駄馬などではない)として10数万円から200万円以上までとピンキリだが、兼右の場合は複数頭だったならまとまれば結構な金額だ。そして、銭の300貫文は3000万円近い感覚だから、これはデカい!
目の前にニンジンをぶら下げられた兼見と前久は必死になり、「家康の松平家は元々新田源氏の流れで得川家といい、藤原氏に転じていたという記録が見つかった」と怪しげな主張で強引に〝従五位下三河守・徳川家康〟を誕生させてしまった。これで家康は三河の正当な支配者である、というお墨付きを得たことになる。
ドケチ家康の真骨頂
ところが、この話には続きがあった。なんと家康はこの約束をバックレたのだ。兼右は7年後に世を去るまで1頭も馬をもらえなかったし、前久も「とりあえず1万疋(100貫文)を差し上げます」と言われて結局2000疋(20貫文=200万円近く)しかもらえず、馬も最初の2年しか送られて来なかった。当の前久の証言だから、これは間違いない(「近衛家文書」)。
毎年3000万円と最初の200万円だけではえらい違い。翌々年から前久は訳あって京を逃げ出し各地を転々とすることになるので、家康はそのドサクサを利用して「払う相手がいないのだから仕方ないのだで」と知らぬ顔を決め込んでしまったのだろう。
「三河国29万石のオーナー」の公式認証マークを馬代込み僅か200万円あまりで手に入れるとは、さすがドケチで知られる家康。某有力SNSの企業・団体・公的機関向け認証マークがそれに近い金額なのを鑑みると、そのコスパの良さは抜群といえる。それにしても、前久さんもきっちり証文をとっておくべきだったね。
もっとも、家康も心のどこかでこの違背行為を後ろめたく思っていたのだろう。のち本能寺の変で羽柴秀吉・織田信孝が「前久は明智光秀に協力したのではないか」と疑念を抱き、身の危険を察した前久が逼塞(ひっそく)すると、その身柄を保護して遠江国で1年近く面倒をみている。
まぁ、それぐらいする義理はあったのである。一応家康のために言い訳をするならば、それからの家康は遠江国に侵攻して浜松城に本拠を移すなど物入りなことばかりで、公家への献金などとてもじゃないがしていられない状況だった。それならそんな約束するな、という話ではあるのだが。