いまは観覧が許される大観邸は、立派な門構えを備えた京数寄屋風建築である。採光を兼ねた内庭が設けられた1階には、客間が三間あり、中の一つが大観が愛した「鉦鼓洞」である。廊下から階段を3段ほど上がると、一間半の床付き、京間十畳の凝った空間に出迎えられる。中央に囲炉裏が切られ、煤竹と萱で葺かれた寂びた天井からは自在鉤が吊るされ、大釜が掛けられている。ひときわ目を引くのは、床に隣り合わせて設けられたガラス扉がはまった展覧スペースで、中には不動明王が鎮座している。あまり例をみない全体の設えが、違和感なく感じられるところに大観の美意識の高さが感じられる。古格でありながら斬新──。
庭に向かう2面は開放的なガラス戸となり、明るい陽射しと豊かな植栽が目を楽しませれくれる。茶庭と枯山水を調和させた庭の中央には疎水が渡され、梅、桜、モミジの他、ツツジ、紫陽花までが植えられている。奥には細川護立侯爵から贈られた大岩が。代表理事の横山浩一さんが解説してくれる。
「この庭はあくまで大観が自然を観察するために造ったものです。季節による微細な移ろいを、日々、鉦鼓洞から凝視していたといいます」
来客を鉦鼓洞に招じ入れ、美しい庭園と、囲炉裏で燗づけした酒でもてなしたという大観だが、あくまでも作品のための庭園であったのだ。
畢生の大作
「生々流転」誕生
朦朧体によって大観が目指したものは何だったのか。それは、豊かな四季と湿潤な気候によって生み出された日本の風土、それを画布に定着させんとする飽くなき挑戦とも言えようか。その集大成となったのが「生々流転」であろう。
23(大正12)年、スケッチを兼ね、静子夫人を伴って山梨の昇仙峡を旅した大観は、3月に小下絵を描き終えるや、5月までに本画約20メートルを描くも、最初からやり直し、8月にかけて一気呵成に大作を完成させていった。9月1日の公開になんとか間に合わせたその日、大震災が東京を襲う。かろうじて難をのがれた長さ41メートルもの絵巻とは──。
山間の一滴の雨は谷に集って渓流となり、川となり、やがて大河となって海に注ぎ込む。波濤豊かな海の光景は、やがて、群雲が龍となって天に昇る姿へと変化してゆく。日本の風景を水が流転してゆく様を雄大に描き、雪山も新緑も紅葉も、すべては墨一色の濃淡で表現される。連なる山々と岩肌、それを蔽う豊かな木々、里山や川べり、或いは海辺には、人々の営みが深い慈しみを込めて描き込まれる。見つめていると、知らず、涙が流れてくる。森羅万象、すべてに始まりがあり、終わりがあり、また始まりへと戻ってゆく、その悠久の流れをつかみ取ろうとする画家の執念が漲る。畢生の大作と呼ぶにふさわしい圧倒的な力──。
終戦の年の空襲で焼けた邸宅は、数年かけて資材が集められ、元の姿で再建された。アトリエにあてられた2階からは、青雲の志を抱いて過ごした上野の山、さらには風光明媚な不忍池が望まれただろう。終生、この地にこだわった訳も窺えた。