2023年2月5日(日)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年1月9日

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城島明彦 (じょうじま・ あきひこ)

作家

昭和21年三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。東宝を経て、ソニー勤務時に「けさらんぱさらん」でオール讀物新人賞を受賞し、作家となる。『ソニー燃ゆ』『ソニーを踏み台にした男たち』などのノンフィクションから、『恐怖がたり42夜』『横濱幻想奇譚』などの小説、歴史上の人物検証『裏・義経本』や『現代語で読む野菊の墓』『「世界の大富豪」成功の法則』『広報がダメだから社長が謝罪会見をする!』など著書多数。「いつか読んでみたかった日本の名著」の現代語訳に 『五輪書』(宮本武蔵・著)、『吉田松陰「留魂録」』、『養生訓』(貝原益軒・著) 、『石田梅岩「都鄙問答」』、『葉隠』(いずれも致知出版社)、古典の現代語抄訳に『超約版 方丈記』(ウェッジ)がある。

 広忠の暗殺がきっかけで、第3次安城合戦が勃発。義元が乗り出して安城城を奪還し、城主の織田信広(信長の異母兄)を捕らえて人質とし、家康と交換したのだ。

こうして家康は今川家の人質となり、信長はその前年に15歳で1つ下の濃姫(のうひめ)(帰蝶<きちょう>)を娶(めと)っていた。

人の失敗を許す心の広さ

 信長が家康を「ただ者ではない」と注目し、「敵に回すと恐ろしい」と高く評価したのは、前回「戦国武将に一目置かれた「桶狭間の戦い」での徳川家康」で伝えたように、1560(永禄3)年に「丸根城の攻略」とそれに続く「大高城への兵糧入れ」での見事な戦いぶりを見聞したからだった。家康19歳、信長27歳。

 桶狭間の戦いでは敵味方だった信長が家康に声をかけ、信長の居城清州城(愛知県清須市)で会見し、同盟(清州同盟)を結ぶのは、桶狭間の戦いから2年後の1562(永禄5)年5月のこと。家康21歳、信長29歳で、若い2人が長年続いてきた両家の戦いを終結させたのだ。

 翌年、2人は親戚になる。信長の娘徳姫(とくひめ)(五徳<ごとく>)と家康の嫡男信康を婚約させ、4年後に政略結婚させたのだ。そこまでは絵にかいたような成功体験だったが、12年後、若夫婦の前途に暗雲が垂れ込める。嫁姑の確執である。

 徳姫は娘は産んだが、息子が生まれず、家康の妻である姑の築山殿から嫌みをいわれ、信康に側室をあてがわれたことから激高、実家の父信長に手紙で直訴したのだ。

 信長は、たまたま家康からの贈答品の駿馬(しゅんめ)を届けに来ていた家康の老臣酒井忠次を呼び、娘の手紙にあった12カ条の真偽を問うた。

 その時点までは信長も「困った娘だ」「酒井はすべて否定するだろう」と軽く考えていたようだが、意外や意外、酒井が12のうち10を真実と認めたので、怒り心頭。「築山殿と信康を殺せと家康殿に伝えてくれ」と命じた。同盟と結婚による〝20代のW成功体験〟が〝30代の失敗体験〟に転じた瞬間だった。

 そのとき38歳になっていた家康は、寝食を忘れて灯もつけずに部屋にこもり、「何とか2人を生かす道はないか」と模索した。まさに「どうする家康!」という局面だったが、弱小国の悲しさ。同盟を破棄されたら国の存続が危うくなるかもしれず、「信康は自決、築山殿は斬殺」という苦渋の決断をした。

 家康は、失敗体験を肝に銘じ、他人の失敗を許した。三河国の一向一揆を平定すると、一揆側についた何人もの家臣の復帰を許したり、滅ぼした武田家の家臣を無条件で大勢受け入れたりしたのも、その例だ。そういうところに、信長や秀吉にはない〝器の大きさ〟を筆者は感じるのである。

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