2024年7月22日(月)

徳川家康から学ぶ「忍耐力」

2023年4月30日

 信玄の妻(正室)は権大納言三条公頼の娘で、仲を取り持ったのは将軍家の足利の血を引く今川義元だった。その義元は上洛しようとして桶狭間の戦いで信長に討たれて死んだ。それからすでに12年が過ぎていた。

 信玄は「武田家は信濃源氏の宗家でもあり、義元亡きあとは自分が上洛して天下人になる」という大望を抱いていたが、残された時間は限られていた。不治の病とされていた労咳(肺結核)を病んでいたのだ。

 「家康が籠城戦を選んだら戦わずに通り過ぎるのが得策だが、それでは武門の名折れ。野戦に導いて簡単にやっつけてから上洛しよう」

 そう考えた信玄の謀略に家康は見事にはまったのである。

忠臣の死で家康は生かされた

 武田軍は徳川・織田連合軍を蹴散らし、家康のところへ迫るのも時間の問題となったとき、家康は、白馬に乗って敵の本陣へ斬り込む武将の雄姿を思い浮かべた。

 第4次川中島の戦いで、愛馬の放生月毛(ほうしょうつきげ)に跨り、愛刀の小豆長光(あずきながみつ)をひっさげて信玄に迫り、三度も斬りつけた上杉謙信である。そのとき信玄は、手にした鉄扇でかろうじて受け止め、死を免れた。

 そんな事件があったのは9年前の1561(永禄4)年で、家康は当時20歳。17歳で初陣を飾ってから3年目の出来事だった。

 絶体絶命となった家康は、謙信の雄姿に自分を重ね、今まさに敵陣めがけて突撃しようとした。と、そのとき、1人の家臣が決死の形相で馬の前に立ちふさがった。

 「家康の最初の危機にして最大の難関、三河一向一揆」で登場した夏目吉信である。漱石の先祖吉信は留守居役として浜松城にいたが、徳川方が劣勢で殿の命が危ないと知ると、「受けた恩を返すのは今しかない」と思い、戦場へ馬を走らせた。

 家康の本陣が風前の灯(ともしび)の状況に陥っているのを目の当たりにした吉信は、やにわに家康を馬から強引に下馬させると、兜を剥ぎ取って自分がかぶった。采配も奪って家康になりかわり、家康が再び乗馬するのを見届けると、馬を敵とは反対側に向けて槍の柄で思いっきり馬尻を蹴った。驚いた馬は、一目に浜松城へと駆けて行った。

 家康に化けた夏目吉信は、家康の姿が遠のくのを見届けると別の馬に跨って、「われこそは家康なり」と大音声に呼ばわりながら敵陣へと突っ込み、壮絶な戦死を遂げたのだった。日本史上、「忠死」(忠義の死)とされる出来事は枚挙にいとまがないが、この一件は代表的な実例といってよいのではないか。

 吉信の「捨て身の忠義」に九死に一生を得た家康は、「死んでなるものか」と狂ったように駆ける馬に必死にしがみつき、城までたどり着くことができた。


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