才能にほれ込んだ
主人との縁
名古屋で名高い料亭「八勝館」は、市営地下鉄鶴舞線の八事駅を降りてすぐ、木立が鬱蒼と繁る高台にあった。3棟の門と、それぞれ趣向を凝らした客室6棟が重要文化財の指定を受けている。この種の施設では極めて稀なことだ。ここに、魯山人が愛した部屋がある。
もとは材木商の別荘で、25年(大正14)に料理旅館として創業された。50年(昭和25)、愛知国体にともなう昭和天皇行幸に際し、料理旅館時代の客でもあった堀口捨己が「御幸の間」を手掛けたほか、風趣に富む広大な庭園にも手が入れられるなど、全面的な改装が施された。料亭となったいまに伝わる庭の美しさは、日がな眺めて時を忘れるほどだ。
女将の杉浦香代子さんによれば、魯山人との付き合いは初代の杉浦保嘉に始まるという。昭和の初め、星岡茶寮で開かれた魯山人の鉢の展示販売会に招かれ、その場で多数を購入した。以来、家族ぐるみの深い付き合いになったという。魯山人から勝手に請求書付きで器が送られてきたり、中には破損して使えないものが含まれていることもあったが、初代は、必ず額面通りの支払いをしたそうだ。それだけ初代は魯山人の作品に魅了されていた。
たいがいは正月に1人でふらりと現れ、別荘時代からの「梅の間」に勝手に腰を据える。6畳の主室に、一間の書院床、回り廊下と次の間が付くだけの簡素な造りだが、決まってこの部屋だったというから、やや古風なこの佇まいが気に入ったのだろう。厨房にも姿を現し、料理人たちにあれやこれや指図する。多くの芸術家を支援した主人はさておき、番頭や料理長は、これが大嫌いだったようだと、香代子さんは話す。
「でも、豆腐ひとつ盛りつけても、真似のできないセンスがあったそうです。季節感を大切に、素材のうまみをどう引き出すか、魯山人の精神がいまに受け継がれているのを、ひしひしと感じます」
交流は、魯山人が死去する59年(昭和34)まで続き、八勝館にはその器が多数、残されている。
星岡茶寮を追放された魯山人は、鎌倉で作陶に没頭し、時には、年に6000点もの器を焼いたとされる。しかし、その素行は改まることなく、数度の結婚と離婚を繰り返し、家族は離散していった。それでも、いまなお作品は強烈にその個性を主張する。魯山人でしかない何かを訴え続け、いまも光っている。