カルヴァン派のプロテスタントの寛容政策がこの都市に人とお金と物資を集め、光学など新しい技術がもたらす富に潤う市民たちが、王侯や貴族に代わる主役に躍り出ようとしていた。
カトリックのスペインの支配を排して自治を目指すアムステルダムに生まれた「射撃隊」という市民の自衛組織が、独立のための戦闘や市街の防衛に活動する場面は、もはやない。その代わりに祭典や儀礼の場が、彼らの活動の舞台となった。誇らしげな衣裳は、経済的な発展で殷賑を極めるアムステルダムの新たな主人公となった「市民」の誇りの象徴であったに違いない。
「出演者」が見せる当時と謎
〈真に自らを見るため、後から来る世代にアムステルダム人であるとはどういうことか教えるためには、画家の目と、そして手が必要だった〉(高山宏訳)。
レンブラントの『夜警』の舞台となった17世紀半ばのアムステルダムについて、英国の歴史学者であるサイモン・シャーマは『レンブラントの目』(河出書房新社)でこう述べている。
アムステルダムでは1642年の春、イングランドから王妃ヘンリエッタ・マリアとその子どもたちを迎え入れる「入市の儀」が予定されていた。オランダの富を目当てにした露骨な政略的外交であったが、彼らを迎える儀礼の場にあてられたのが、アムステル河を見下ろす瀟洒な新練兵会館の大広間である。
士官たちの雄姿を描く群像画がこの部屋を飾る記念の作品として企画され、発注された7点のうちの最も大きな絵画がレンブラントの『夜警』である。
この絵に登場する主役の射撃隊長、フランス・バニング・コックをはじめ、画面のなかのモデルたちはそれぞれ、画家に対して「出演費」を支払った。19人の登場人物のうち、子どもを除いて一人当たりおよそ100グルデン、全体で1600グルデンが支払われたといわれる。現代の価値に置き換えれば、モデル一人当たり数万円というところだろうか。
中央に白と黒の鮮やかな制服を身に着けた主役のバニング・コックと副官のウィレム・ファン・ライテンブルフには、おそらく他のモデルたちより高額の「出演費」を払った。
ここには「射撃隊」の周辺のさまざまな人物が描かれている。
右端で光が当たっている太鼓手は、市役所の職員である。おそらく「出演費」も払っていないこのモデルを、画家はなぜわざわざ登場させたのだろう。
生地商や雑貨商で財を成した隊員、カルヴァン派の教会の執事で救貧院の理事を務める男らに混じって、中景の闇の中にスポットライトを当てたように浮かび上がる少女がいる。腰に鶏を一羽、さかさまにして吊り下げている。奇観というべきである。そのころの酒場の給仕女の風俗といわれるが、そこにどのような寓意が込められているのだろう。
「勝利の女神」の表徴であるとか、若くして死の床にあった妻のサスキアに捧げた画家の祈りであるとかの解釈が重ねられてきたが、真相はわからない。少女は『夜警』という時代と切り結んだ絵画の隠された琴線に触れて、観者に謎を問いかける。
バニング・コックの中隊には120人ほどが所属していた。戦争や災害などに備えるために富裕な市民が集まった自発的な結社である「射撃隊」の組合は、社会が安定して経済的な発展が進むにつれて、参事会が任命する都市の公的な自衛組織の性格を次第に強めた。
画家とほぼ同世代のバニング・コックは右手に上流市民の証である手袋と指揮棒を手にして、武器は持たない。差し出した左手は隊員たちをどこへ導こうとしているのか。サイモン・シャーマはそれを、もはや止めることのできない「前へ」という歴史の動性である、という。
〈それはひとりレンブラントその人の天才ばかりか、市の天才、市民兵の天才をも言祝ごうという観念だった。自由と規律が、エネルギーと秩序がともに進んで行くというのがその観念だったからだ〉(同前)