2024年11月21日(木)

絵画のヒストリア

2023年12月30日

 〈アジアは一つである。二つの強力な文明、孔子の共同主義を持つ中国人と、ヴェーダの個人主義を持つインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようというがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき窮極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることはできない〉(岡倉天心『東洋の理想』)

 ヒンズー教の大家のスワミ・ビベカーナンダを通して出会った「不二一元」の思想を、天心は「存在するものは外見上いかに多様だろうと、じつはひとつであるという、偉大な印度の教説に対し用いられる呼び名」と述べて、インドから中国を包み込んで日本に流れ着く仏教文明のつらなりに「アジアはひとつ」というメッセージをあてがうのである。

 「アジアはひとつ」はその後、大きなうねりとなっていく。英国の植民地支配からの解放を目指すインドの独立運動に、天心が深い同情を寄せてゆくのもこの言葉が働いた。

 のちの日本が「大東亜共栄圏」を掲げて、アジア各国の植民地化をすすめるにあたり、そのスローガンに「アジアはひとつ」がかかわっていったのは、ここに端を発している。

米国に残した爪痕

 とはいえ、天心の理念のもとに生まれた「朦朧体」に対する世間の不評は続き、在野の一団体に過ぎない日本美術院はますます混迷を深めた。同人たちが各地に作品を持って売り歩くなどしたが、事態は好転しないことから、今度は西洋文明の足もとである米国へ作品を持ち込んで、各地を巡回することを天心は考える。

 1904(明治37)年2月、天心と大観、春草に六角紫水をくわえた一行は横浜から「伊予丸」で太平洋を渡った。折から日露戦争の戦端が開いた年である。3人は紋付羽織姿でニューヨークの目抜き通りを闊歩して、米国民から好奇のまなざしを集めた。

 ニューヨーク、ボストン、セントルイス万博などを巡回して展覧会に大観らの作品を展示する一方、それぞれの巡回先で〈サムライ〉を思わせる紋付羽織姿の天心が流暢な英語で、西洋文明の圧迫に抗してアジアを導く日本の文化の優美を滔々と論じた。

 それは『日本の覚醒』という著作として、米国社会に大きな反響を広げるのである。

〈日本の急激な発展は外国人の観察者にとっては多少とも謎であった。日本は花々と甲鉄  艦の国、逸り気のヒロイズムとデリケートな茶碗の国である――「新しい世界」と「古い世界」の薄明の中に、古風で美しいものの影が入り乱れる不思議な辺境である、と〉

 天心は米国社会の知的な人脈にも通じており、『日本の覚醒』は米国の大統領のセオドア・ルーズベルトも目を通していたといわれる。日露戦争に勝ってポーツマスの講和に臨む日本にとって、天心一行が繰り広げた文化的なプロパガンダは西欧に対抗する〈日本〉を演出するという点でそれなりの痕跡を残したはずである。

 天心は2年後、フェノロサの後をうけてボストン美術館の中国日本部長に任命された。

 高給を得て、中国と日本関係の美術品の選定と購入と一手に任された。

 今日、名著といわれる『茶の本』を書いたのも滞米中である。

 しかし、日本に戻った天心の居場所はもはや失われつつあった。

 東京美術学校では校長にフランス留学から戻った黒田清輝が着任し、美術界は西洋画の天下になった。谷中の日本美術院はもはや見る影もない。天心が寄り付かないうえに、負債が積み重なって同人たちへの給与はほとんど支払われない。帰国した横山大観は歓迎会の席上で「われわれは憤慨に堪えんのです。ああ、往年の美術院は斃れてしまった」と慨嘆した。

 海外では生き生きとしていた天心は、帰国するとすさんだ日々に身を任せた。

 ボストンと日本を往来しながら東京の美術院への関心を失い、自身は豊かな印税収入などを糧に妙高赤倉の別荘など各地で、デカダンスな生活に明け暮れていた。

 やがて「都落ち」を決意する。1906(明治39)年の秋、茨城五浦の岬に土地を求めて日本美術院の研究所を建てた。内面に抱えた情熱のデーモンの火照りと〈アジアはひとつ〉という壮大な言説の破綻の果てに、矛盾の塊の天心がたどり着いたのが、五浦なる辺境の地であった。自身と大観、春草、観山、木村武山の4人が家族と生活する住居を設けて移転したが、片田舎で同人たちの暮らしは険しさを増すばかりである。

 今日、日本美術院の「五浦時代」は白砂青松の理想郷(アルカディア)を求めた天心と画家たちの新たな挑戦のように伝えられるが、それは必ずしも正確ではない。戦いに敗れた天心が見出した逃亡先(アジール)が五浦だったのであり、大観や春草や観山たちはいわばその犠牲となったのである。

 ここで天心は日中、漁師を雇って漕ぎ出した太平洋で釣り糸を垂れ、戻ると岬の突堤の「六角堂」と名付けた朱塗りの茶室で、松籟を揺らす海風の音を聞きながら茶をたてた。

茨城県五浦の六角堂。日本美術院の移転とともに天心が建立。2011年の東日本大震災の津波で流失したが、再建された(藤田 秀男/アフロ)

 〈奥様。何度もペンをとりましたが、驚いたことに何一つ書くことがありません。すべては言い尽くされ、なし尽くされました―安んじて死を待つほか、何も残されていません。広大な空虚です。暗黒ではなく、驚異的な光に満ちた空虚です‥‥〉(1913年8月2日付)

 かつてインドで会った詩聖タゴールの縁戚の女流詩人、プリヤンパダ・デヴィ・バネルジーに晩年の天心は深く心を寄せ、夥しい書簡のやりとりをしている。これは50歳で彼がなくなる年の夏、五浦の六角堂で綴って送った最後の恋文の一節である。

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