日本美術院の理念と評判、天心の賭け
「日本美術院」が発足した1898(明治31)の10月、同人たちによる最初の展覧会に出品されたある作品が大きな反響を呼んだ。
横山大観の『屈原』である。
中国の春秋戦国時代、楚王の側近として武勲を重ねながら周囲の妬みによる讒言にあって失脚し、その怨讐と憂国の熱情を抱えて汨羅(べきら)の流れに身を投じた人物である。
大観が描いた画面の屈原は、伸びるに任せた髭と蓬髪を風になびかせて汨羅の河岸に立ちつくしている。前方へ向けたそのまなざしには、悲哀と恨みをたたえた激しい憤怒が渦巻いているようだ。中国の故事に主題を重ねて、醜聞をきっかけに勢いを得た画壇の〈洋画派〉によって官職を追われた師の岡倉天心の無念を、大観はこの絵に託した。
野に下った日本美術院で天心が指導理念としたのは「空気を描く」という、一見とらえどころのない描法を通して、遠近法などによる西洋美術のリアリズムを超えた新しい日本画を構築することであった。大観や菱田春草、下村観山ら同人たちはその理念を背負って、やまと絵や狩野派が伝統絵画の生命線としてきた〈線描〉を画面から追放する試みに取り組んだ。「没線描法」と呼ぶこの手法は、不自然な「線」を画面からなくして空気や光線が生み出す感覚を再現することを目指したが、結果は散々であった。
〈私や菱田君が岡倉先生の考えに従って絵画制作の手法上に一つの新しい変化を求め、空刷毛を使用して空気、光線などの表現に一つの新しい試みを敢てした事が当時の鑑賞界に容れられず、所謂朦朧(もうろう)派の罵倒を受けるに至ったもので、此特殊な形容詞は当時の新聞記者諸君の命名したものであった〉(『大観画談』講談社)
「空気を描く」という天心が掲げた指導理念の失敗は、世評のみならず発足したばかりの日本美術院の財政を直撃した。つまり、絵が売れないのである。
天心はそこで乾坤一擲の賭けに出る。
1900(明治34)年10月、横浜を発ってインドへ向かうのである。
賭けというよりも、この旅はインドの独立運動の支援など表向きの目的とは別に、旧知の詩聖タゴールとの交流や対外的な著述活動など、挫折した天心が日本美術院の混迷をのがれて異郷に遊ぶ〈逃避〉の外遊であったのだろう。
しかし、天心はこの旅のあいだに「アジアはひとつである」という呼びかけで欧米に知られるようになる著作、『東洋の理想』を英文で書き上げている。