モネの〝パトロン〟となったクレマンソー
〈今日の目が昨日の目とは異なる世界を捉えるということを、もはや誰が理解しないというのだろうか。長きにわたる努力の末に、眼ははじめは薄暗く、そして今となっては光り輝く自然を発見した。それだけではない。我々の視覚能力の究極の進化によって、見るという行為が洗練されたた時、どれほどの喜びが待ち受けているか、知る由もない〉
モネの〈連作〉をこのように評価したクレマンソーは、すでにパトロンや蒐集家の目を超えた眼差しをこの画家に注いでいたのである。
モネがパリから北西80キロも離れた農村のジヴェルニーに移り住んだのは42歳の時である。セーヌ川の支流に沿った田園の古い農家を買い取り、周辺の土地を買い足して庭園づくりに没頭した。妻を亡くして、ふたりの子供を抱えた画家は、6人の子供を持つ未亡人をのち添えに迎え、この田園のアトリエと住まい、そして水辺に花々の咲き乱れる庭に囲まれた暮らしを選んだ。
モネがジヴェルニーの風光にひかれた理由は何だったのか。
彼は庭にアイリスやチューリップ、そして日本の芍薬(しゃくやく)などを配し、池には夥しい睡蓮の花を育てた。水辺に日本風の太鼓橋をしつらえた田園のアジール(隠れ家)であり、アトリエの壁は北斎や広重の浮世絵で所狭しと埋め尽くされている。そこは彼が温めてきたジャポニスム(日本趣味)への憧れを体現するユートピアであったに違いない。
1903年にモネは池に咲き乱れた〈睡蓮〉の群生をひたすら描く『睡蓮、水の風景』の連作』に着手する。季節や時間をかえてさまざまに変容する水辺のドラマに、ほとんど取りつかれたように没頭するのである。
〈この仕事に没頭しきっています。水面とそこに映る影にとりつかれてしまいました。これは私のような老いぼれの能力を超えた仕事です。でも私が感じていることを表現したいのです〉(1908年8月11日、批評家のギュスターブ・ジェフロアにあてた手紙)
そのころクレマンソーはといえば、1902年に上院議員となり、1906年には首相となった。第一次世界大戦で西部戦線が膠着すると、再び首相に請われて戦争政策を推し進め、1919年のパリ講和会議でヴェルサイユ条約に調印するなど目覚ましい働きを続けたが、多忙な公務を縫って彼はしばしばジヴェルニーにモネを訪ねた。白内障を患って視力が衰えてゆく老いた画家を励まし、「睡蓮」の連作に打ち込む晩年を支えた。
「あなたが世界そのものを哲学的に追い求めている間に、私は未知の現実と緊密に呼応する目に見える世界について、出来得る限りの努力を続けてきた」。晩年のモネはクレマンソーにそう語りかけている。
大戦が休戦となった1918年、モネは二度目の首相の職にあったクレマンソーに対し、戦勝を祝って『睡蓮』の連作のうち二組を国に寄贈すると申し出た。
モネの没後の1927年に『睡蓮』の連作がチュルリー公園のオランジュリー美術館に特別に作られた楕円形の展示室に展示されるのは、もちろんクレマンソーの篤い友情の証しというべきであろう。