2025年12月5日(金)

絵画のヒストリア

2025年4月21日

 やはりこの頃、パリで活動していた日本人の画商の林忠正が雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集号で、日本の風土と自然をこのように紹介している。おそらくこの一文も、ゴッホの眼にも触れていたのであろう。

運命を決めた行き違い

 大胆で鮮烈な色彩とデリケートな描線が織りなす浮世絵の造形にくわえて、遠く東洋の小さな島国である〈日本〉という異郷にまつわる情報は、この無名の画家に花々とやすらぎに包まれた芸術家の「アルカディア」〈理想郷〉のイメージを膨らませた。

『大はしあたけの夕立』(版画模写) 1887年 油彩、カンバス、 アムステルダム 国立ファン・ゴッホ美術館蔵(フィンセント・ファン・ゴッホ, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 ドガやピサロ、スーラやゴーギャンといった印象派の画家たちとまじわりながら、ゴッホは1888年3月にロートレックの勧めでパリから南仏のアルルに移住した。「芸術家のコロニー」を作るという目的のこの移住には、画家のなかに息づく〈日本〉というアルカディアが、明るい陽光のあふれる南仏のアルルに重ねられていた。

 〈日本の芸術家たちがお互い同士作品交換したことは、ぼくは前々から心を打たれてきた。これは彼らがお互いに助け合っていて、彼らの間にはある種の調和が支配していたことの証拠だ。もちろん彼らはまさしく兄弟同士のような生活の中で暮らしたのであって、陰謀の中で生きたのではない。その点、彼らを見習えば、われわれもましになるのだ〉

 もちろん、ここには未知の〈日本〉からゴッホが受け止めた過剰な「理想郷」への夢想や善意の誤解も含まれている。ともあれ、豊かな自然が織りなすまばゆい光と色彩を求めて、彼はアルルに空想の〈日本〉の面影を探り、「コロニー」を構想したのである。

 新天地のアルルで、ゴッホは旺盛な制作を繰り広げた。

 『アルルの跳ね橋』や『ひまわり』『夜のカフェ』など、画家の短い生涯の代表的作品がアルルに移住した1888年に集中しているのは、偶然ではなかろう。ここではパリ時代の作品のジャポニスムは影を潜めた。「ここでは日本の絵は必要ない。というのも、ぼくはいつもここが日本なのだと思っているからだ」とゴッホはテオにあてた手紙で書いた。

『夜のカフェテラス』(1888) 油彩・カンバス 国立クレラー・ミュラー美術館蔵(Vincent van Gogh, Public domain, via Wikimedia Commons)

 しかし、「コロニー」の企ては失敗する。

 呼びかけた画家たちからの反応は乏しく、ようやく秋になって親しかったゴーギャンがアルルにやってきた。といってもゴーギャンは仕事が安定するまでゴッホと共同生活できるアルルに身を寄せたのであって、「コロニー」の計画に応じたわけではない。

 そんな行き違いから二人の友情は2カ月で破綻する。よく知られる「耳切り事件」によってゴッホは精神的な発作を起こし、精神科病院に入院した。


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