2025年12月5日(金)

絵画のヒストリア

2025年4月21日

 ゴッホは死の2カ月ほど前、『医師ガシェの肖像』を描くにあたって、オランダにいる妹にあててこのような意気込みを手紙に認めている。

 青い上衣に鳥打帽、憂いをたたえてテーブルに頬杖をつくガシェのポーズ、手前には花房や葉模様まで丁寧に描きこまれたジギダリスの花と、数冊の黄色い表紙の書物。そして背景にはゴッホ独特のうねるような青い線が重なって広がっている――。

激動の世界情勢にさらされた『ガシェ』 

 いまパリのオルセー美術館が所蔵する『医師がシェの肖像』の「バージョン2」に対して、オリジナルといわれる「バージョン1」はそれから20世紀の歴史の激動にたゆたい、ふしぎな運命をたどった。

 ゴッホの弟のテオが没したのちの1897年、これを相続した未亡人のヨハンナが作品をデンマーク人の蒐集家に300フランで売却した。その後、さらに数人の画商や蒐集家を転々としたのち、1911年に独フランクフルト・アム・マインのシュテーデル美術館が取得して1933年まで収蔵品として一般に公開されていた。

 ところがこの絵画の運命を暗転させたのは、ナチスドイツが「退廃芸術」の烙印を押して国内外から印象派をはじめとするモダニズム絵画や美術品の没収をすすめ、シュテーテル美術館の隠し部屋に置かれていたこの作品も摘発されたことである。

 没収された『医師ガシェの肖像』(ver.1)は、ナチスの中枢でヒトラーの片腕といわれたヘルマン・ゲーリングが横領して私有していたが、のちにアムステルダムの画商に売却、作品はさらに流転する。

 アムステルダムの画商からこの作品を購入したドイツ人銀行家のフランツ・ケーニヒスは、それを友人のユダヤ人蒐集家、ジークフリート・クラマルスキーに託したが、ナチスの迫害を怖れたクラマルスキーは作品とともに大西洋を越えて米ニューヨークに逃れ、結局この作品はメトロポリタン美術館に寄託されて戦後を生き続けた。

 ところが、戦争をはさんで世紀をめまぐるしく流転したゴッホの『医師ガシェの肖像』(ver.1)は思いがけず、20世紀の掉尾に近い時期に画家がユートピアと憧れた日本の地に忽然とあらわれる。歴史のアイロニーと呼ぶべきだろうか。

 〈バブルのピーク時には、株価の上昇が庶民の年収を上回るような値上がり益を生み出す一方で、都心部には普通のサラリーマンの生涯賃金を4倍にしても手が届かないようなマンションが出現した。それは人々の価値観を破壊するのに十分な出来事だった。誰もが真面目に働くことの「割りの悪さ」を感じ、持てる者と持たざる者のあいだには不公平感が広がった。そして欲望と怨嗟が渦巻くなか、人々はユーフォリアへとなだれ込んだ。もはやだれにも止めることはできなかった〉

 ジャーナリストの永野健二が著書『バブル―日本迷走の原点―』(新潮社)のなかで、日本企業のバブル投機が絵画など美術品にまで及んだこの当時の空気をそう振り返っている。

 さまよえる『医師ガシェの肖像』(ver.1)が作者ゴッホの憧れの地、日本にたどり着いたのは20世紀も残り少ない1990年のことである。奇しくも37歳のゴッホが拳銃自殺する2カ月余り前にこの作品を描いた1890年から100年を経ていた。

 クラマルスキーが売却を決意してメトロポリタン美術館から作品を引き上げ、5月15日にニューヨークのクリスティーズの競売にこの作品を出品したのである。

 世界から集まった入札者のなかで、落札したのは日本から名乗りを上げた大昭和製紙名誉会長の斎藤了英。落札額は史上最高額といわれる8250万ドル、当時のレートで約125億5000万円であった。日本人にとって、この落札の顛末は「私が死んだら作品を一緒に棺に入れて燃やしてほしい」という斎藤の発言とともに、20世紀末の日本が経験したバブル経済とその崩壊を映す記憶としていまも鮮明である。

残る日本との関係性

 斎藤の没後の1997年、「ガシェ」はサザビーズでオーストリアの投資家、ウォルフガンク・フロットルに売却。2007年にフロットルの破産で再度売却された。

 わずか7年足らずの「日本滞在」であり、斎藤の手元にあっこの作品が一般に公開されることはなかった。21世紀の現在に至るまで、その後の所在はわからない。

 この時期の日本企業の「ゴッホ買い」としては、1987年に安田火災海上保険(当時)がやはり最高額の53億円で落札した『ひまわり』があり、現在は東京・SONPO美術館が所蔵、公開されている。

「ひまわり」(1888) 油彩・カンバス (東京 SONPO美術館蔵)(フィンセント・ファン・ゴッホ, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 ゴッホの魂の真髄といってもいい「ひまわり」を描いた作品は、現在7点が確認されている。アムステルダム、ニューヨーク、ロンドン、ミュンヘンなどの欧米各地の美術館にくわえて、日本の美術館がその一点を所蔵しているのもバブル経済の徒花ではあるが、画家が深い憧れを抱いてユートピアと仰いだ日本の一点は、僥倖と呼ぶべきだろうか。

 近代日本がヴィンセント・ファン・ゴッホと結んだ〈友情〉は、バブル期の企業の絵画投機という痕跡を通してかろうじて水脈をとどめている。

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