しかしこれは、テミストクレスの仕組んだ巧妙な策略であった。サラミスの海域は入り組んだ狭い湾であり、そこにペルシアの大艦隊が侵攻しても、艦隊を展開する余地があまりなく、むしろ少数のギリシャ連合艦隊にとって有利な戦場となる。テミストクレスはペルシアの艦隊をサラミス海域に引き込むために、わざと偽の情報をペルシア側に流したことになる。
こうしてサラミスの海戦が行われた結果、ギリシャ連合艦隊の倍以上の戦力を有したペルシア軍は致命的な敗北を喫し、クセルクセスは戦意を喪失してギリシャから撤退するに至った。
ペルシア戦争において、ギリシャ連合軍を兵力ではるかに凌いだペルシア軍は、その優位性から慢心しており、劣勢にあったギリシャは策略を駆使して何とかペルシアの軍勢を食い止めようとしていたことが窺える。
「神託」を退けた
孫子の先見性
しかしギリシャ人といえども、まだこの時代には組織的にスパイを運用するまでには至っておらず、ギリシャ神話の神々であるデルフォイの神託に頼る、といったことの方が多かった。
既述したテミストクレスも元々、この神託によってサラミスの海戦の着想を得たとされている。そのため後のアテナイとスパルタの覇権争いとなるペロポネソス戦争においても、戦闘に備えて敵情視察や地誌情報を収集するということはあまり実施されなかった。
紀元前4世紀に活躍したアテナイの名将クセノポンは、戦場において斥候が情報を収集することよりも、神々の神託を受け入れることの方が重要だと主張している。実際、ペロポネソス戦争において、アテナイ軍は大規模な部隊を遠方の地であるシチリア島に派遣する作戦を行っている。
だが、この作戦のために事前の情報収集も行わず、ただ内政の都合と神託から遠征を強行し、無残な失敗に終わっている。その後のアレクサンダー大王も東方遠征の際には、アリスタンドロスという予言者を傍らに置き、常にその占いに耳を傾けていたという。
このように古代ギリシャでは、占いとインテリジェンスが渾然一体に扱われており、ペルシア戦争とほぼ同時代に生きた孫子が、戦争における占いというものを完全に退けていたことは、かなりの先見性があったと指摘できよう。
コロナ禍を契機に社会のデジタルシフトが加速した。だが今や、その流れに取り残されつつあるのが行政だ。国の政策、デジタル庁、そして自治体のDXはどこに向かうべきか。デジタルが変える地域の未来。その具体的な〝絵〟を見せることが第一歩だ。