2024年12月7日(土)

INTELLIGENCE MIND

2022年4月25日

 冷戦の終結によって、それまで西側諸国が仮想敵としていたソ連をはじめとする東欧圏は軒並み総崩れとなり、欧米におけるインテリジェンスの役割は一時的に低下した。

 しかし、1990年代には日本国内で阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、海外では湾岸戦争や北朝鮮によるミサイル発射実験などの事案が引き続き生じたため、むしろ危機管理とそれを支えるインテリジェンスの強化が模索された時期であった。この時期に内閣情報調査室長を務めた大森義夫氏は「内調の仕事に開国的な変化をもたらした新事態は湾岸戦争である」と述懐している。

紆余曲折を経て至った
防衛庁情報本部の創設

 冷戦後、日本は独自の安全保障政策を策定していくことが迫られており、そのためには防衛庁(当時)・自衛隊の情報機能を強化することが必須であった。

 元警察庁長官の後藤田正晴氏は朝日新聞のインタビューにおいて、戦後日本のインテリジェンスが育たなかった原因として、「米国依存だから。国の安全は全部米国任せだから、いまのように属国になってしまったんだ」と話している。

 そこで防衛庁・自衛隊の情報組織を統合し、情報本部を創設するという構想を披露したのは「ミスター防衛庁」と呼ばれた防衛事務次官、西広整輝氏であった。西広氏から相談を受けた後藤田氏が当時の様子を回顧している。

 「西広整輝君が防衛事務次官だったときに来てね。『あれ(陸上幕僚監部調査部第二課別室=調別)を充実したいから、防衛庁でやらせてください』と言ってきたんだ。僕はずいぶん考えたんだけど、『よかろう』と。ただし条件があるぞ、情報は全部内閣に上げろ。それと制服だけで防衛庁で運営するのはまかりならん。内閣の職員を入れろ」

 しかし実際に防衛庁・自衛隊内で統合の検討が始まると、防衛庁の内局、陸海空自衛隊はこぞって反対という有り様であった。

 この検討の最前線にいた黒江哲郎氏(後の防衛事務次官)は、「統合情報組織の設立に反対する各幕の主張の背景は、『これまで営々と苦労して投資し、育て上げてきた組織を勝手に取り上げられるのには反対だ』という強い感情論がありました」と説明している。

 このような状況で、各組織を説得して回ったのが、警察庁から防衛庁に出向していた当時の調査第一課長、三谷秀史氏(後の内閣情報官)である。西広氏の意向を受けて三谷氏はインテリジェンス統合の重要性を方々に説いて回ったが、一課長の力だけでは各組織を説得しきるのは極めて困難な状況であった。

 しかし、元大蔵官僚の秋山昌廣防衛局長(後の防衛事務次官)が、統合賛成に回ったことで事態は大きく動きだすことになる。こうして情報本部は西広氏の構想から10年近くもの歳月をかけて形作られ、97年1月20日に統合幕僚監部下の組織として、1700人の人員で情報本部が立ち上がった。

 情報本部の設置によって、各自衛隊に分散していた情報部門は統合され、国家レベルの情報機関が創設されたのである。

 情報本部の中核は、調別を引き継いだ電波部であり、現在も各国の軍事通信を傍受し、貴重な情報を収集している。


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