事実確認の術さえない
日本だったが……
93年5月29日には北朝鮮が中距離弾道ミサイル「ノドン」を日本海に向けて発射した。当時の日本のインテリジェンスは発射の兆候どころか、その事実を確認する術すら持たない状況であり、ただ米国からもたらされた情報を妄信する以外のことができなかったのだ。石原信雄官房副長官は世論喚起する意味合いで、あえてミサイル情報をマスコミに明かしているが、マスコミの方も確認する術を持っていなかったようで記事にならず、世論の反応は冷静であった。この時、日本のインテリジェンスは北朝鮮の弾道ミサイルの脅威に全く対応できない、という事実のみが明らかになった。
その後、98年8月31日には北朝鮮による「テポドン」の発射実験が行われた。同ミサイルは事前通告なしに日本の上空を飛び越えたため、当時の日本に衝撃を与えた。この時、米国の早期警戒衛星がミサイル発射の兆候を捉え、防衛庁に通知してきたが、同庁はこれを事前に捉えられず、また発射後も北朝鮮が主張する人工衛星なのか、ミサイルなのか判断が揺らいでいた。さらに米国政府が「北朝鮮は小型の人工衛星を軌道に乗せようとしたが、失敗したという結論を得た」と北朝鮮の主張に追随したことが、日本政府にさらなる衝撃を与えた。これを機に、自前の偵察衛星を持つ必要性が政官で広く共有されるようになった。
衛星の導入は官の範疇を大きく超えるため、政治家が主導することになる。中でも中山太郎元外務大臣と野中広務官房長官が積極的に導入についての検討を進め、官の側では古川貞二郎官房副長官を中心に、内閣情報官の杉田和博氏らが主導した。
当時、衛星開発にあたって最大の障害は米国の意向であった。米国からすれば、日本は米国から偵察衛星の画像情報を供与されており、衛星を導入するにしても米国製のものを購入すればよかったため、日本が独自の偵察衛星を持とうとするのはナショナリズムの高揚ではないかと疑われていたのである。
ただ米国も一致して反対というわけではなく、偵察衛星の運用を一手に担う国防総省は反対、日本の立場を理解する国務省は中立、日本のインテリジェンス能力の向上を期待する中央情報庁(CIA)は賛成であった。
最終的に国務省が国防総省を説得する形で、米国側も日本の国産衛星の開発に理解を示すようになったため、2001年4月には内閣官房に内閣衛星情報センターが設置された。そして03年3月28日、最初の情報収集衛星が種子島宇宙センターからH2Aロケットによって打ち上げられ、日本も偵察衛星保有国の一角を占めるようになった。
こうして1990年代後半から2000年代にかけて、各省庁単位で運用されてきた情報組織が統合、改編されることで、情報本部や内閣衛星情報センターといった、国家レベルのインテリジェンス組織が創設されたのである。