前回の本連載で取り上げた古代ギリシャに引き続き、古代ローマも組織としてインテリジェンスを運用するには至らなかったものの、戦争に明け暮れていたローマは、軍事的な情報を収集・活用する必要があった。
それを最も効果的に実施したのが、かのガイウス・ユリウス・カエサルであった。
英ケンブリッジ大学のクリストファー・アンドリュー教授の著書『The Secret World』(米イエール大学出版)によれば、カエサル軍に情報専門の参謀はいなかったとされるが、偵察を専門にした部隊を抱えており、戦場では斥候を先行させ、敵情や地形についての情報を収集させていた。
ガリア(現在のフランス、ベルギー地方)戦争においては、自ら現地のガリア人に扮して、現地の情報を収集しながら、敵中に孤立した部隊の位置を確認していたという記録も残っている。
またカエサルは、捕虜の尋問によって得られる情報を重要視しており、ガリア戦争において捕虜が「ゲルマン人は新月の直前には戦闘行動をとらない」と話したのを聞くと、サビス川の戦いにおいて、新月の直前の時期に攻撃を行うことで勝利している。
「通信の秘密」重視が
カエサルの慧眼
カエサルがそれまでのローマの軍人と比べて異質であったのは、通信の秘匿に最大限の注意を払った点である。重要な文書や手紙を記す際、それが敵の手に陥る可能性を常に想定して、カエサルは換字式暗号(サイファー)を多用していた。
これはアルファベットの文字を入れ替えていくやり方である。例えば英語の「Apple」という単語のそれぞれのアルファベットを「A→B」といった具合に、次にくるアルファベットに一文字ずつ置き換えると、「Bqqmf」となる。一文字ずらすだけではすぐに推測されるので、なるべく複雑な法則を用いて文字を変換することで、元の意味にたどり着くのが困難になる。
ちなみに単語そのものを他の単語に置き換えるやり方(Apple→Pen)はコードと呼ばれる。まずコードで「Apple」を「Pen」に置き換え、さらにサイファーで「Pen」→「Qfo」と変換すれば、より強固な暗号となる。現在、この種の暗号はカエサルに敬意を払って、「シーザー(カエサル)暗号」と呼ばれている。
紀元前54年、ガリア戦争においてローマの政治家、キケロ率いる部隊は敵軍に包囲されており、降伏寸前の状況だった。そこに援軍を率いてやって来たカエサルは先遣隊を派遣し、槍に手紙を結び付けてキケロの宿営地に投げ込ませたのである。手紙はシーザー暗号で「3日目にしてようやく追いついた」と記してあり、キケロがそれを疲労困憊の兵の前で読み上げたところ、部隊の士気が大いに上がったという。こうしてキケロはカエサルの援軍によって窮地を脱することができたのである。
カエサルは占いの呪縛から逃れ、インテリジェンスに価値を見出したことで、軍人、政治家としての能力を開花させたといえる。彼は紀元前63年にローマの最高神祇官の職に就くが、これは信心からというよりは、政治権力への近道と確信していたからで、莫大な賄賂を使ってまで同職を獲得したことからも、信心の欠片もなかったことが窺える。
しかし、占いへの信頼のなさが、逆に彼の命を奪うことになる。紀元前44年、カエサルは預言者から「3月15日に気を付けろ」という警告を受けている。当日になって、カエサルが「何事もなかったではないか」と言うと、預言者が「15日はまだ終わっていない」と返したという有名なやりとりが伝えられている。そしてその日の夜、カエサルは腹心のマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの手によって暗殺されたのである。