ナポレオン・ボナパルトは、その軍事的才覚によって19世紀初頭のヨーロッパを席巻して巨大な帝国を築き上げ、一介の軍人から皇帝に上りつめた。その手法は、「国民皆兵制度」による国民軍の創設や、砲兵・兵站の重視など枚挙にいとまがないが、意外なことにナポレオンは戦場において情報を重視しなかったとされる。
その理由は、戦場の情報が司令官の元に届くのに時間がかかったことや、多くの報告は斥候が自分の目で確認したものではなく、伝聞情報を基にしており信頼性が低かったことにある。また、ほとんどの場合、司令官に情報が届く頃には情勢が変化しており、使い物にならなかった。
ただし彼は、情報そのものには価値を見出しており、自らの参謀本部に情報部門を設置したり、英国で発行される新聞を熱心に読んでいたとされる。当時、英国内では検閲制度が廃止され、新聞各社は自由に記事を書くことができ、その情報の信頼性がフランスのものより高かったためである。
抜擢された大臣が皇帝さえも監視下に
ナポレオンを情報面から支えた人物としては、警察大臣を務めたジョゼフ・フーシェが有名だろう。当時、フランスでは革命に起因する密告がはびこっており、フーシェの秘密警察はその延長に確立されたのである。
フーシェは大臣に抜擢されると、あっという間にフランス国内に情報網を築き上げ、政治家の書簡や外交文書を秘密裏に開封して中を読み解くことで、国内の反ナポレオン派や外国スパイ、さらには上司のナポレオンまでをも監視下に置いていた。ナポレオンの最初の妻、ジョゼフィーヌは放蕩三昧の生活であり、金銭目的でナポレオンの私生活の情報をフーシェに売っていたようである。
フーシェは毎日、ナポレオンに情報報告を行うほどその能力を高く評価されていたが、決して信頼はされなかった。ナポレオンは「私のベッドをのぞくような大臣はうんざりだ」と不平を漏らしつつも、フーシェの首を切れなかったようである。
そのためナポレオンは、個人的に12人の情報提供者を別に雇って情報を得ていた。フーシェが国内で逮捕した政治犯は数千人にもなるとされ、フランス国内だけではなく、ウィーン、アムステルダム、ハンブルクにも拠点を設置し、海外の動向にも目を光らせていた。
ハンブルクにおいては、スパイ網を築きつつあった英国人、ジョージ・ランボルド卿の邸宅に忍び込んで、スパイのリストを奪い、ランボルドの身柄も押さえることで、英国の陰謀を未然に防いでいる。
海外からナポレオンに貴重な情報を届けていたのは、カール・シュルマイスターである。ドイツ生まれのシュルマイスターは、仏独ハンガリー語に堪能であったので、オーストリア軍のカール・マック将軍にスパイとして採用されている。しかし、オーストリア軍はシュルマイスターの情報を重視しなかったため、密かにフランス軍に接触し、ナポレオンの副官であったアン・ジャン・マリエ・サヴァリ将軍のスパイとして活動した。
サヴァリはフーシェの後任として警察大臣を務めた人物である。シュルマイスターはオーストリア軍の情報をナポレオン軍に伝える一方、偽情報をオーストリア軍に伝えることで、1805年10月のウルムの戦いでのフランス軍の勝利に貢献した。そしてその貢献を認められ、シュルマイスターは対外情報の責任者に抜擢されるほど重用された。