文久2(1862)年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。
明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。(⇒この連載の記事一覧)
千歳丸に乗り込んだ人物の中で最も興味深い人物と問われたら、やはり百人中百人が高杉晋作の名前を挙げるに違いない。生年は天保10(1839)年だから、上海滞在時は23歳ということになる。帰国5年後の慶応3(1867)年に没した。これ以上、敢えて記すこともないだろう。
高杉の上海滞在記録である『遊淸五錄序』『航海日録』『上海掩留日録』『續航海日録』『獨斷に而蒸氣船和蘭國江注文仕候一條』(以上、第一冊)、『支那遊私記草稿』『航海日録』『内情探索録』『外情探索録』『支那與外國交易場所附』『長崎互市之策左之通』『外事探索録巻之貳』(以上、第二冊)が、一括して『遊淸五錄』として『高杉晋作著作集』(堀哲三郎編 新人物往来社 昭和49年)に収められている。
それぞれの記録を詳細に比較すると若干の違いは認められもするが、それらの異同を詮索はせず、ここでは専ら高杉の上海滞在を追体験したい。なお、高杉の残した記録は主に漢文で綴られている。高杉の思いを損なわないように努めながら、適宜、判り易く現代風に訳しておく。
高杉晋作の慧眼
長崎で千歳丸に乗り込む際、高杉は中牟田と同じように麻疹が完癒してはいなかった。だが体調に構っていたら、上海という異土を見聞する千載一遇の好機を逃してしまうではないか。そこで一行に暫く遅れ、中牟田と共に小舟を雇い、夜に入ってから杖を頼りに乗船を果たした。
乗船して辺りを見回すと、幕吏に各藩出身の従者、加えて身の回りの世話をする従僕など誰もが初対面と思っていた。だが、なぜか聞き覚えのある声がする。江戸の昌平黌で1年間机を並べて勉学に励んだ「浪速處士伊藤軍八」だった。思わぬところで、と久闊を叙したことはいうまでもない。船内の居住環境は劣悪であり、そのうえ病気だったことから、高杉は「終夜遂不得眠也(一晩中、眠れなかった)」。
千歳丸の上海行きについて「幕府は貿易のために支那に渡ろうとしている」とした後、「海外への渡航は寛永以前の朱章船以来のことである。官吏というものは商売に疎いから、イギリス人とオランダ人の仲介に頼ることになろう。乗船するのもイギリス船であり、船長はイギリス人のヘンリーリチヤルトソンで、その他の14人のイギリス人は操船に当たる」と記している。じつは千歳丸は幕府が購入したイギリス製木造船だった。
幕府は幕末に(1)万延元(1860)年:遣米使節団、(2)文久2(1862)年:遣欧使節団。(3)文久3(1863)年:遣仏使節団、(4)慶応2(1866)年:遣露使節団、(5)慶応3(1867)年:遣仏使節団――と5回にわたって外交使節団を派遣しているが、千歳丸は遣欧使節団と遣仏使節団とに挿まれて派遣されたことになる。
高杉は『内情探索録』に、「幕府は上海で諸外国との貿易を掲げているが、おそらく長崎の商人どもが長崎鎮台の高橋某に賄賂を贈り、ボロ儲けしようと企んでいるのだろう。江戸からやって来た幕吏にしても、多くは高橋某の仲間で、海外出張に伴い手にすることができる高額手当を狙っているのではないか。幕吏なんぞは取引については商人や長崎の地役人に任せっきりで、何も知らない。ただ商人からの報告を鵜呑みにして記録するだけだ。商人は通訳を仲間に引き入れ、通訳は何から何まで『外夷』に相談するから、全てが相手にお見通し。かくてイギリス人とオランダ人の好き勝手のし放題ということだ」とも記す。
ここに記されたような考えは、千歳丸で共に上海に渡った峯・名倉・納富・中牟田などの残した記録には見当たらない。さすがの高杉である。慧眼というべきだろう。