2024年7月16日(火)

幕末の若きサムライが見た中国

2018年6月16日

文久2(1862)年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。アヘン戦争の結果として結ばれた南京条約締結(1842年)によって対外開放され20年が過ぎ、上海は欧米各国の船舶が蝟集する国際都市に大変貌していた。長い鎖国によって生身の人間の往来が絶たれていたこともあり、日本人は書物が伝える“バーチャルな中国”を中国と思い込んでいたに違いない。その後遺症に、日本は悩まされ続け、現在に至るも完全治癒とは言い難い。

上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。

明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。

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 名倉予何人「イナタ」と読む。生年不詳。浜松藩儒官。昌平黌で学び、後に洋学、兵学を修める。維新の際には浜松藩主の参謀役を務め、明治政府では外務大佑として清国貿易に携わった。退官後には台湾貿易を目指したが失敗。根岸に漢学塾を開き、明治34(1901)年に没している。

 名倉が残した毛筆和綴じ本の『海外日録』の表紙には、「四月二十九日発長崎 七月十三日帰埼 上海在留五十九日」と墨痕鮮やかに記されている。表紙を繰ると、千歳丸による上海行きは「寛永以前ノ朱章船」の復活だが、幕府役人が公式に「入唐」するは室町幕府以来のことであり、誰もがこの航海を「一大愉快」と痛感していると記す。彼ら幕末の若者の押さえようにも押さえられない胸の高鳴りが伝わって来るようだ。

ニューヨークを超える上海の賑わい

 『海外日録』は、「四月廿七日 快晴 午後官吏大小及ヒ従僕総計五十一名斉シク官船 船名千歳丸 ニ乗ス」るところから書き出されている。操船担当のイギリス人15人を含め全員が乗り込んだが船中は相当にごった返していた。出航準備を整え29日早朝に長崎港を離れる。途中、暴風雨に遭いながらも6日後に大陸の山々を望む。「舟中ノ人喜色掬スヘシ」というから、船中が大いに沸き返ったに違いない。

 やがて「砲臺並列ス」る両岸を見やりながら上海側の派遣した蒸気船に導かれ、係留地点に向かう。数多くの軍艦が停泊しているが、殊に「英船最多シ」。さすがに「支那諸港中第一繁昌ナリ所」だけあって「西洋諸国ノ商船櫛比シ壮観ヲ極メタリ」。一行の中に万延元(1860)年の新見豊前守を正使とする遣米使節に加わって訪米した者がいて、「ワシントン〇ニューヱロク〇ニモ遥カニ勝リタル繁昌ナリト」と口にする。彼の目には、上海はワシントンはおろかニューヨークよりも繁華に映ったのだろう。

 上海上陸の後、中国人の先導で一行が世話になるオランダ商館に向かう。じつは当時、日清両国(江戸幕府と清国政府)は国交を結んでなかったため、清国当局は日清両国と国交のあったオランダを経由しての交渉を幕府役人に求めた。そこで上海での正式交渉は全てオランダ商館の仲介を必要としたのである。上海滞在中の宿舎としてフランス商館を利用しているが、江戸幕府に対するフランスの気遣いが感じられる。

 上海上陸数日後、宿舎に留まっていると多くの中国人がやって来ただけでなく、筆談で「琉球人か」と問い質してきた。琉球は上海との間で往来をしていたことの証左とも考えられる。また「長崎横濱等ニ曾テ来リシ唐人」が近寄ってきて、「吾邦語ヲ以テ『アナタイツキタ』」などと狎れなれしく声を掛けてきた。街頭を歩けば多くの中国人からジロジロと眺められ、「殆ド眩暈ヲ覚」える。それほどまでに日本人は街中で珍しがられたのだろう。

 埠頭を歩く。「数萬ノ船舶江中ニ泊シ」、上海の「盛ナル吾浪華ノ比ニ非ラス」。上海は「吾浪華」、つまり天下の台所で知られた大阪なんぞ比較にならないほどに大きくて賑わっている。名倉の仕える浜松藩より日本は広く、日本より世界はもっと広い。広い世界から日本を見直すべし、である。


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