文久2(1862)年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。アヘン戦争の結果として結ばれた南京条約締結(1842年)によって対外開放され20年が過ぎ、上海は欧米各国の船舶が蝟集する国際都市に大変貌していた。長い鎖国によって生身の人間の往来が絶たれていたこともあり、日本人は書物が伝える“バーチャルな中国”を中国と思い込んでいたに違いない。その後遺症に、日本は悩まされ続け、現在に至るも完全治癒とは言い難い。
上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。
明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。
源蔵とも潔助とも名乗っていた峯潔は、文久2年4月(1862年5月)、大村藩医師尾本公同の従僕として千歳丸に乗りこんで上海を目指した。この千歳丸は徳川幕府が英国から購入し、貿易の可能性を探る目的で上海に派遣した木造船である。
万延元(1860)年の遣米使節、同じく文久2年の遣欧使節、文久3年の遣仏使節、慶応3(1867)年などの幕府派遣の外交使節とは一味も二味も違うものの、千歳丸の「唐国渡海」は「江戸の夕映え」を彩るに相応しい壮挙であろう。
1862年5月27日(「文久二年壬戌四月二十九日」)の黎明に長崎を出帆した千歳丸は7日余の航海の後に上海に到着し、70日余り後の「七月十三日」に長崎に帰任している。往路と復路を合わせて半月ほどの航海を差引くと、彼らの上海滞在は50余日だった。この間、じつに精力的に上海を見て廻り、清国人(中国人)と意見を交わし、気息奄々たる隣国の姿を嘆き、憤り、日本の行末に思いを馳せる。
ところで峯潔が書き残した『航海日録』(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成9年)を読み進める前に、当時の日清両国が置かれていた内外状況を簡単に振り返っておきたい。
「緊張の極」にあった上海に入港した千歳丸
先ず日本。文久の前が安政だが、安政年間の大事件をみると、下田条約調印(4年5月)、将軍によるハリス謁見(同年10月)、井伊直弼の大老就任(5年4月)、神奈川・長崎・函館を開港し露・英・仏・蘭・米に貿易を許可(6年6月)、橋本佐内・頼三樹三郎・吉田松陰に死罪(同年10月)と続き、その後は咸臨丸渡米(万延元年1月)、桜田門外の変(同年3月)、水戸浪士による高輪東漸寺での英国公使など襲撃(文久元年5月)、百姓一揆頻発(同年)となる。文久元年から6年後の慶応3年12月には王政復古の大号令が下り、今から150年前には明治維新となった。
次に文久2年を少し詳しく見ておくと、坂下門外における水戸藩士による老中・安藤信正襲撃(1月)、薩摩藩内尊皇派粛清事件とされる所謂「寺田屋騒動」(4月)、生麦事件(8月)、朝議攘夷に決す(9月)、幕府開国論が朝議を受け攘夷奉勅に一変(10月)、高杉晋作ら外国公使襲撃(11月)、徳川慶喜の武田耕雲斎を伴っての上洛(12月)、品川御殿山に新築の英国公使館を高杉晋作・伊藤俊輔ら焼き討ち(12月)など、激動の1年である。
一方の清国は、1840年のアヘン戦争敗北以来、昔日の栄光は跡形もなく、開明的官僚・知識人による絶対必死の救国策も空転するばかり。もはや亡国への坂道を転がり落ちるしかなかった。最大の脅威の太平天国軍が長江以南を制圧し、南京に都を定め太平天国を建国したのは我が嘉永6年に当たる1853年2月である。以後、指導者間で内紛を起こしながらも勢力を拡大し、太平天国は軍を上海郊外に進めていた。当時は長髪賊と呼ばれた太平天国の攻撃を前に上海には累卵の危機が逼る。そんな緊張の極にあった上海に、千歳丸は入港したのである。
幕府役人から許可が下りるや、峯は高杉晋作らと直ちに上海の街に飛び出し、先ず筆屋に飛び込んだ。もちろん筆を買うためだが中国人に囲まれ、好奇の目で見られる。峯は「日本人始テ上海ニ遊来也」と綴るが、勘違いしていたらしい。峯は知らなかったようだが、峯以前に上海に住んでいた日本人がいた。この年の初めに上海を離れ、シンガポールに移っていったジョン・マシュー・オトソンを名乗る日本人漁師・音吉である。