音吉の波乱万丈な人生
文政2(1819)年に尾張国知多郡小野浦に生まれた音吉は、天保3(1832)年に乗組んだ宝順丸(船頭以下13人)が遠州灘沖で暴風に遭遇し難破し、太平洋を14か月の漂流した後、アメリカ太平洋岸に漂着した。生存者は音吉を含め3人だった。インディアンに奴隷として売り飛ばされたが、イギリス船に救助され、ロンドン経由でマカオに送られた。この間、1日だけロンドン見物を許されたとのことだから、彼らはロンドン上陸を果たした最初の日本人ということになる。
何回か帰国を試みたが果たせず、天保9(1838)年にアメリカへ。その後、上海に渡りイギリス軍の1兵士としてアヘン戦争に従軍し、やがてイギリス商社のデント商会に勤務し、マカオで宣教活動をしていたスコットランド人と結婚。嘉永2(1849)年と安政元(1854)年の2回、イギリス側の通訳として長崎などに赴いた。長崎奉行から帰国の誘いがあったが、上海での生活を理由に断ったそうだ。この時、福沢諭吉と面談している。
上海ではデント商会勤務のドイツ系マレー人女性と再婚しているが、太平天国軍の進撃によって上海に危機が逼った文久2年初め、シンガポールに移住している。シンガポールでは竹内下野守を正使とする文久遣欧使節に「翻訳方御雇」として加わっていた福沢と再会し、清国の状況を語っている。元治元(1864)年には日本人として初めてイギリス帰化を果たし、ジョン・マシュー・オトソンと改名する。慶応3(1867)年、シンガポールで病死。享年49歳。
音吉のシンガポール移住が数ヶ月遅く、あるいは千歳丸の上海入港が半年ほど早かったら、峯にせよ高杉にせよ上海の街角で音吉と出会い、料理屋の片隅でアヘン戦争の実態やら英米事情を聞きだしていたかもしれない。
音吉は鎖国政策によって遂には帰国が果たせなかったものの、日本は軍事力を保持して外国に対すべしとの主張を持っていただけに、外国の軍事力の前に鎖国を解いたことを「外国に屈した」と慨嘆していたともいわれる。であればこそ、かりに音吉がアヘン戦争における清国の惨敗ぶりを語り、軍事力による鎖国維持を強く進言する機会があったとしたら、幕末の外交政策は尊皇開国へと大転換することなく、尊王攘夷のまま継続された可能性も考えられなかったわけでもないだろう。
だが、滔々と流れる時代の荒波は賢しらな人智などで押し止められるほどにヤワではなかったであろうだけに、外国暮らしが長く外国の事情に精通していたとはいえ、音吉1人の考えではどうすることもできなかったに違いない。
厳戒態勢を敷く上海の街で
上海の街を歩いて先ず気になったのが、居並ぶ食べ物屋の店先に漂う油の臭いだった。「通行スル其息気甚不宜」と記しているところからして、峯は油の臭いと饐えたような人いきれで悪臭紛々たる往来を顔を顰めながら歩いたのであろう。
そんな峯のところに中国人が近づいてきた。自ら長崎唐人街居住経験者と名乗り、「馴々敷来テ袖ヲ曳テ日本語ヲ以テ、イツイツ」来たのかと尋ねる。そこで峯が丁寧に応じると、「遊ヒカソレハヨイ」と。馴れ馴れしくやって来て袖を曳くというのが面白いが、この馴れ馴れしさに昔も今も日本人はコロッと丸め込まれてしまうから油断ならないし、それゆえに始末に困る。
「大ナル呉服所在リ」。そこで店先で値段を尋ねた。どうやら上海初上陸の日本人を甘く見てバカ高い値段を吹っ掛けられたようだ。日本の武士を甘くみるなよ、といったところか。やがて追い着いてきた2,3人の仲間とフランス軍の兵営へ。この日は休暇らしく酔っぱらったフランス兵が出て来て、盛んに峯の袖を引く。
そこで、同行していた薩摩の五代才助(のちの友厚)と連れ立ってフランス軍の兵営に入って杯を酌み交わす。そのうちにフランス兵が興味を示すので峯は腰の日本刀を抜いて渡した。真剣の鋭い美しさに多くの兵が驚嘆の態を示す。
酒もそこそこに切り上げ兵営を離れ、上海を囲む城壁の西門辺りへ。同所を護っていたのは総勢で2,30人ほどの武装した英仏両国兵だった。どうやら太平天国軍は上海近郊にまで逼り上海攻略一歩手前の情勢にある。そこで英仏兵が増強され、上海城内も厳戒態勢に入った。夜も早々と城門を閉じ防備を固める一方、英仏軍を軸とする各国兵士によって太平天国軍攻略の軍議がもたれたようだ。