高杉晋作ら幕末の若者らを乗せた千歳丸は、旧暦の文久2年4月29日早暁に長崎を出港する(以後、日付は原則として旧暦)。海上では台風に遭遇し激浪に苦しみながらも、5月6日の朝、前檣にオランダ、中檣最上部にイギリス、後檣に日本――3カ国の国旗を掲げオンダ領事館前に投錨し、上海到着となった。
初めて目にする上海港の賑わいを、峯潔は「華夷ノ船舶来往織ルカ如」く、「就中英船最多シ」。「西洋諸国ノ商船櫛比シ壮観ヲ極メタリ」。さすがに「支那諸港中第一繁昌ナル所」と記し、中牟田は「上海滯在之洋船百艘も可有之歟。唐船は一萬艘も可有之歟。誠に存外之振にて候事」と綴っている。
文久2年の“なんでも見てやろう”
2人の記述からは、想像を遥かに超えた上海港の賑わいに対する素直な驚きが感じられる。当時の日本で唯一外国(といってもオランダと清国)に向って開かれていた長崎の出島も、天下の台所で知られた大阪も、ましてや将軍様のおひざ元である江戸も、上海港の賑わいと較べたら、子供と大人の差以上の違いを痛感させられたのではないか。
とはいえ上海が漁港から「支那諸港中第一繁昌ナル所」に変じたのは、アヘン戦争敗北の代償として1842年に締結された南京条約によって、広州・厦門・福州・寧波など中国南部沿海に位置する主要港と共に英国に開かれてからだ。1842年から千歳丸入港の20年の間に、中国と西欧世界とを結ぶ貿易拠点と変じたのである。彼らもまた、諸外国との交易が繁栄に繋がることを学んだはずだ。
そんな上海に、血気盛んな幕末の若者が上陸したのである。若者は「徘徊」と称し、足と興味に任せて歩く。中国人の住む上海の街だけでなく、西欧人居住区、攻め寄せる太平天国軍から上海を守備するために編成された英仏軍や清国軍の兵営、さらには郊外にまで足を伸ばす。許可なく外国人と交渉すべからずなどという幕吏の上陸前の注意など守るわけがなかった。まさに文久2年の“なんでも見てやろう”である。
先ず彼らが驚かされたのが、極度に不衛生で雑然とした街並みだった。