2024年12月7日(土)

幕末の若きサムライが見た中国

2018年7月10日

文久2(1862)年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。

明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。⇒前回から読む

iStock / Getty Images Plus / Leonid Andronov

清国の大将が放った「至言」

 日比野を訪ねて種々雑多な中国人がやって来る。先ずは太平天国軍を避けて上海に逃げて来た地方の名望家や文人が、書画の売り込みにやってくる。売り喰いの竹の子生活を余儀なくされてのことだろう。

 ある時、「古硯一面ヲ帶シ」た12、13歳の童子がやって来て、遠方から避難してきて飢えるばかり。「請フワレヲタスケヨト云フ」。かくて「嗟、民ノ塗炭ニクルシム者、ソレ誰ゾヤ」と義憤に駆られるのだが、簡単に同情してはならない。「ワレヲタスケヨ」は本当なのか。まさか日本人の「温和」さに付け込もうという魂胆ではなかろうか。

 中には「少シ文才アツテ共ニ語ルニ足ルモ、ソノ人トナリ輕躁浮薄ニテ虚飾多」い者もいた。日比野を訪問する同胞を品定めし、「彼等鬼奴ナリ、共ニ論ズルニタラズ」と遠避ける。そこで日比野は「余オモフニ眞ノ鬼奴」はこいつだ、と。確かに同胞を貶めようとする「鬼奴」はいるものだ。

 とはいうものの、時にハッとするような大人(たいじん)に出会うこともあった。ある時、「大清朝勅授文林郎江西永新縣甲辰科擧人華翼綸端肅拝」と何とも長ったらしく仰々しい名刺を差し出される。そこで面談すると、7人の従者を従えていた。7万の軍を率いて太平天国軍とは40数回戦った大将で、勇ましい佇まいである。それゆえに筆談も盛り上がる。彼は清国指導者の李鴻章と軍事を談じると同時に戦傷治療のために上海に滞在しているが、幸運にも日本人の上海来訪を「聞イテ戀ヒ來ルヨシ。至ツテ謙遜ニテ軍事ヲ語ラズ。唯云フ、何モヨクスルナシ」。

 かくて日比野は相手の華翼綸を「敬シテ親シムベキ者ナリ」と認める。当時の中国人にはこんなにも謙虚な人がいたかと思うと、やや大袈裟ではあるが“奇跡”としかいいようはなさそうだ。とはいうものの、「戀ヒ來ル」との一言を真に受けてよいものだろうか。

 華翼綸以外に心を許した友人に科挙(秀才)に合格した周士錦がいた。筆談で「洋夷ノ事」や太平天国について問い質すが、科挙の合格者は私的に国事を語ることは許されないといい、日本の国情についても質問しないし、「清國ノ事務モ語ラズ」。そこで日比野は「ソノ人品文才交中ノ魁タルヲ覚ユ」と、手放しで褒める。「唐人多ク國家ノ事ヲ筆ニマカセテ妄答ス」とも記しているが、おそらく日比野は彼らの「妄答」に相当に振り回されたのだろう。

 日比野の体調は芳しくなく清国軍の操練を見る機会を失した。そこで7万の軍隊を率いる華翼綸に清国軍の戦法を尋ねる。「確固たる命令系統の下で臨機応変に対応するのみであり、徒に既往の戦法の原理原則に縛られる必要はない。清国軍は西欧の兵器を使わず、重い旧式銃に槍・刀を使う」との答が返って来た。そこで「ソノ意ヲ聞ク」と、華翼綸は次のように説いた。

 ――「洋夷」の火器や軍艦は極めて便利ではあるが、我が清国においては何よりも「勇義」を尊ぶ。戦場で兵士が頼りとするのは兵器ではなく、じつは「勇義」である。「勇義」を貫いて戦うのみだ。「洋夷」の兵器なんぞを使ったら、おのずから西洋の「俗」に化し、「勇戰」することを棄てて兵器に頼ってしまう。「洋夷」の兵器は「故ニモチヰズ」――

 華翼綸の話を聞いて、日比野は「コノ言實ニ確乎ヌクベカラザルナリ」と書き出す。それ以下を現代風に書き換えると、

 ――まことに至言というべきだ。「勇義」をいうなら、我が日本は天下第一であり、「辮髪輩(=清国人)」なんぞの遠く及ぶところではない。この「勇義」を五体に漲らせ、「生氣」が形となって現れた刀や槍を持って戦うなら、天下が我らに靡いてくることは疑いない。しかるに漢学を学んだ者は漢人もどきに成り果て、「西土(=清国)」を恋い慕う余りに尊ぶべき自らの祖国を賤しみ軽んじ、「洋夷」の兵器に迷って自らを忘れ、「蠏字言語(=西洋語)」を学ぶ。甚だしきに至っては異国の服装を身に着け、「正朔(=暦)」までも有難がる始末。こういう手合いは「皇國(=日本)」が如何なる国なのか、「勇義」の何たるかを知らない。不届き至極なことである――

 それにしても、である。文久2(1862)年の上海における日比野の指摘は、以後も一向に改められることなく、現在に至っているように思えてならない。


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