日本社会は今、大きな「閉塞感」に覆われている。
現状を変えたいと願いながらも、1960年代~70年代のように、国家のあり方を論じ、まじめに政治運動をすることによって「社会を変える」ことは、国民にとって現実的な興味を掻き立てない。人々は心の中にそんな不平不満を募らせながらも、日々、懸命に生きている。
だが、昨今の閉塞感は我慢の臨界点に達しつつある。長年にわたり、人々の不満がマグマのように溜まり、日本は噴火寸前の状態である。そんな中で行われたのが、2024年の東京都知事選、衆院選、兵庫県知事選であり、人々はSNSを通じて、これまでとは違うある種の熱狂した雰囲気を味わうことになった。
東京都知事選では、前広島県安芸高田市長の石丸伸二氏が、政策を訴えるというよりも、SNSを駆使して話題を集め、「石丸現象」を起こした。NHKから国民を守る党は24人の候補者を擁立したが、初めから当選することは目指さず、その場をかく乱するかのような選挙戦を展開し、その後の兵庫県知事選では、実際に〝有権者を動かす力〟も得た。国民民主党は衆院選でショート動画を駆使し、「手取りを増やす」ことを訴え、若者の支持を広げた。
一連の選挙には共通点がある。それは、私なりの言葉で表現すると、〝合法的なテロリズム〟が行われたということである。
そもそも、民主主義は、政治家が勉強することは当然だが、有権者も政党や候補者の打ち出す政策を吟味し、実際に投票することで初めて有効に機能するものだ。言ってみれば、極めて地味で、まじめな議論、プロセスが必要なのである。
だが、一連の選挙では、非常に残念なことだが、「自分たちの政策で社会を変える」というよりも、民主主義の制度を否定したり、揶揄したり、嘲笑したりすることで、他者を糾弾し、引きずり下ろし、人々がそのことに拍手喝采を与えていた面が見受けられたのである。
それはまるで、学校の先生が授業中、まじめに話しているのを生徒たちが嘲笑したり、隣の人とヒソヒソ話をするなどして、反抗の姿勢を示すといった光景に似ている。
一般的にテロリズムとは、暴力によって現状を打破するものだが、彼らは選挙という民主主義のルールの間隙を突き、「まじめな雰囲気」そのものを揶揄し、嘲笑した。それが合法的なテロリズムというものである。SNSがその事態をさらに助長させたことは言うまでもない。
だから、私には、兵庫県知事選の投票率が前回よりも15ポイント近く上回ったことや、期日前投票が過去最多になったニュースを素直に寿ぐことができなかったのである。