2024年12月22日(日)

Wedge SPECIAL REPORT

2023年1月23日

PRAST PHOTO/GETTYIMAGES

 今、20代や30代の若者が、大企業や官公庁で働く道を選ばず、「一国一城の主」として起業するケースが増えている。彼らが重視することの一つに、決定権の「速さ」が挙げられよう。この対極にあるのが大企業や官公庁に蔓延る「遅さ」である。

 そもそも企業に限らず、日本社会では、さまざまな人の意見に耳を傾けて「手続き」に多くの時間をかける傾向が強い。言い換えれば、決定権が遅いことを良しとする価値観があるということだ。これは、ある意味では「民主主義」的であり、「独裁」を生まないという点では有効であろう。だが、問題は時代の流れに対して、「あまりにも遅い」ということである。

 企業の中で、ある部門の責任者が海外で商談に臨み、大筋で合意したとする。しかし、その後に彼らを待つのは、本社に対する復命や説明など、決裁のための「手続き」である。

 手続きの中には、玉虫色の結論にすることを求められる場合もある。例えば、道徳教材の内容を決める場合、保守派・リベラル派双方の意見を尊重するあまり、「愛国心は大事だが世界的な視野で物事を考える人材が必要」「公共のために努力すべきだが、個人主義も大切」のように美辞麗句を並べ立て、何も言っていないに等しい結論にするといったことが起きている。不毛な「手続き」に膨大な時間と労力をかければ、大企業などの組織の中で、〝突き抜けた〟人材がいたとしても、彼らの活躍できる余地はない。

 若者たちの相次ぐ起業は、旧来の価値観が根強い大企業などに対するアンチテーゼと捉えることもできる。その意味で日本社会では今、価値観の「せめぎ合い」が起きているのだ。

 そうした中、大企業もかつてのように〝日本発〟の革新的な製品やサービスが生み出せていないように見える。

 「ソニー、ホンダ、日清食品といった企業は、いずれも終戦の1945年から10年の間に、焼け野原から立ち上がって創業した企業です。(中略)現在でも日本の上場企業の構成を見ると、終戦から10年の間に創業した企業が119社(中略)それ以降設立された企業がメジャーになっていない(中略)日本でも、終戦後に続く、第二の創業時代をつくろうではありませんか」

 岸田文雄首相は『文藝春秋』2022年2月号の寄稿でこう指摘した。まさに、戦後日本の無秩序の中で、多くの企業が誕生したわけだが、70年以上経った現在も、これらの企業以外に有望企業が誕生していない現実を見ると、複雑な気持ちになるのである。

日本企業が置かれた状況歴史から考える

 次に現在の日本社会や日本企業が置かれている状況を、歴史の中で考えてみたい。この国は有史以来、制度疲労により滞留しているものを壊す決定要因がないままに行き詰まることがある。代表例は、幕末の混乱期である。

 封建制度で凝り固まり、明治維新という〝革命〟を実行しない限り、変われないほど澱が沈殿していた江戸末期、例えば幕府の中で異能な人材が活躍できる余地は少なかったであろう。

 象徴するエピソードがある。咸臨丸で米国に渡った勝海舟らが帰国した時、老中の一人が日本と米国の違いは何かを問うと、勝は(米国では)「重い職にある人は、そのぶんだけ賢い」と述べた。つまり、米国は適材適所で(能力の高い)人材を登用していたということだ。一方、200年以上続いた鎖国政策による安逸をむさぼり、問題を先送りし続けてきた江戸幕府は、ペリー来航を前に、ただただ、慌てふためくしかなかったのである。

 こう考えると、日本の大企業のような組織の中で、異能な人材を育てられないということは、ある意味で歴史や文化によって培われた日本人のパーソナリティーなのかもしれない。より根本的にいえば、日本人は農耕民族で、長年ムラ社会の中でお互い助け合って生きてきた。そこでは、何事も「平等」であることが優先された。

 平等性を重視して良かったこともあるが、社会が激変している時には、それに対応できる人材が求められるのである。西欧列強がアジアの国々を次々と植民地化していった幕末期に、薩摩藩・長州藩などから西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文、山県有朋など、少数の〝突き抜けた〟人材(志士たち)が現れたことで、明治維新は成し遂げられた。つまり、日本でも適材適所で有能な人材が活躍した歴史的事実があり、それができる民族でもあるのだ。


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