2024年11月22日(金)

幕末の若きサムライが見た中国

2018年8月3日

筆談記録から浮かび上がる高杉晋作の関心

 話を高杉に戻す。

 上海は「甞て英夷に奪はれし地」であり、確かに「津港は繁盛」してはいるが、それは「皆外國人商船多」く、「城外城裏も、皆外國人の商館多きか故」である。「支那人の居所を見るに、多くは貧者にて、其不潔なること難道(いいがたし)」。だが「外國人の商館に役せられ居る者」、つまり外国商人に雇われている買弁商人だけは豊かに暮らしている。「少しく學力有」って「志を有つ者」は「皆北京邊江去」ってしまった。科挙試験を受けるために北京に出て行き、上海に残る中国人は外国商人のために働く少数の豊かな買弁商人と大多数の「日雇非人」だけということになる。だからこそ上海は、外国商人に占領されたも同然であり、「大英屬國と謂ふ而(て)も好き譯なり」という結論に至るのだ。

 高杉が上海で付き合った清国人と交わした筆談を纏めた『外情探索録巻之貳』からは、当時の高杉の関心の在りようが浮かび上がってくると同時に、日清双方の知識人による相互理解の程度を知ることができる。高杉が書き残したうちの興味深い筆談のいくつかを、以下に示しておく。●●は高杉が交友を重ねた清国人(多数)である。なお〔 〕で若干の解説を示し、高杉の原文を生かすべく( )でフリガナを振っておいた。漢字は当用漢字に改めた。

高杉:イギリス、オロシャ、メリケン、フランスの孰れの国を以て強となすや。

●●:オロシャ、最強なり。〔高杉はオロシャ最強の理由を問い質そうとしたが、幕吏帰館の知らせがあり、高杉は早々に筆を擱いている〕

高杉:上海におられる隠士逸民の名前をお教え願いたい。

●●:当地、海浜の地にて俗人多し。世を逃れ隠れ住む者も敢えて名前を隠し、ただ金銭を求めるのみ。

高杉:孔子の教える聖道は、かつては盛んなるが今や衰えた。慨嘆するのみ。

●●:まさに、その極み。金銭のみが命であり、恥ずべき限り。笑うべく歎くべし。

高杉:〔外出中の名倉を訪ねてやってきた中国人に対し「名倉は外出であり再度お越し願いたい」と返答した後〕弟もまた時事を談ずことを好む。然るに此処は我が国俗吏の所在、故に默す。姓名と居處を書して去らんことを請う。

●●:姓名と貴国にての役職をお尋ねしたい。

高杉:弟性〔おそらくは「姓」の誤記〕は源、名は春風、通称は高杉晋作、書を読み武を好む。常に貴邦の奇士王守仁〔=王陽明〕の人と為りを欽慕す。

高杉:兄、読書人と聞く。今、賊乱〔太平天国軍〕を避け此の海隅地に居す。その心中、思う可し。

●●:旧冬より長毛賊を避け此処に至る。今春三月、既に家屋は焚焼され、家中の書籍金石書画は一併(すべて)が空(うせ)たり。惨憺たる様は言い難し。

高杉:これを聞くに、人をして潜然(ふかくしずか)に落涙せしむ。貴邦、堯舜以来堂々正気の国、而るを近世区々として西夷の猖獗する所たるは則ち何たるか。

●●:いま国運は凌替(すたれ)る。晋の五胡、唐の回訖、宋の遼金夏、千古は同じ慨きなり。〔清もまた、夷狄に滅ぼされた晋、唐、宋と同じ運命を辿る〕

高杉:国運の凌替るは君臣、其の道を得ざるの故、君臣其の道を得れば、なんぞ国運の凌替かあらん。貴邦、近世の衰微、自ら炎(も)やすのみ、これを天命と謂(い)わんか。

高杉:上海における賞罰之權〔司法権〕、尽(ことごと)く英仏二夷に帰すと聞く。信なるや否や。

●●:英仏はただ英仏士民を管理するのみ。本国事務なるは本国の官、処理す。

高杉:(上海)城外の地、尽く英仏の管する所なるか。

●●:北門外は英仏に帰属するも、その外の地、本朝に隷属す。

●●:弊邦(しんこく)、孔聖を以て依帰(たより)と為す。貴処(きこく)、何の教えを尊崇す。士を取(えら)び官と作(な)すに詩文を考試(しけん)するや否や。

高杉:我邦(にほん)にては孔聖を貴(とうと)ばざる無きなり。別に天照太神有りて、士民皆奉じて尊崇す。次いで貴邦の孔夫子に及べり。士を取るは多く武を以てし、故に我が邦は武を以てす。〔中略〕人を教えるに忠孝の道を以てするに、天照太神と孔夫子に異なること有るに非ざるなり。故に我が邦の人、天神の道に素(ありのまま)にして孔聖の道を学ぶ。

高杉:貴邦とオロシャと和親最も好くす。近世の事情は如何。

●●:オロシャ国、弊国と通商し在(お)いて我朝(しんちょう)に厚恩を感ず。助兵助餉之擧(すけだち)ある所以なり。和親の説、想うに斉東野人(マヌケでトンマ)の語るところのみ。

高杉:口に聖賢の道を唱え、身は夷狄の役所(こまづかい)なるは斉東野人なり。真の斉東野人なるか。嗚呼、浮文空詩(しぶんをもてあそぶ)、何の当(やく)にか足(た)たん。目に一丁字無き兵卒、歎くべし、憂うべし。

高杉:軍兵を操錬するところ、我、以為(おもう)に多く威将軍の兵法たり。或は西洋の銃砲陣法を学びしや否や。

●●:閣下、多く兵法を知る。而して此の地の招募する所の郷勇(へいし)は農民多し。現有の英仏二国は中国銃・外国砲の銃砲を慣用し、賊は寒胆(きょうふ)を見(あら)わすに、軍威、大いに振う。

高杉:貴邦、外国との和親、最も好きは何国ならん。

●●:現在、英仏二国が最も総(ちか)し。以下、小国は少なからずも、詳細を知らず。交易の本は往来(ゆきき)なり。

高杉:嘗て聞く。貴邦、オロシャと和親最も好く、又貿易多く陸路に於ける。信なるか否か。

●●:和親は絶えることなく、毎年、北口外にて交易す。

高杉:北口外なるは、何州、何(いずれの)地なるか。

●●:州名無く、地名無し。乃(すなわ)ち、オロシャとの境なり。

 ――以上から高杉の関心は、清露関係の推移と現状、上海におけるイギリスとフランスの影響力と法的立場、清国衰微の原因にあったようだ。

 上海を離れるにあたって、高杉は最も親しく付き合った友人から別離の紀念として揮毫を贈られるが、「弟、歸郷の後、此の記(もじ)を壁上に題(かか)げ朝夕閑讀(もくどく)し、以て鬱屈の氣を發(はら)す可し。海外に知己を得るは、殆ど夢の如し」と感謝の意を表す。高杉が返礼に日頃愛用の硯を贈ると、相手は「閣下を知己と為すは亦一生の大快事。何ぞ敢えて再び厚賜を承けん。況や此の硯、大兄常用するところなりて、此の物、亦甚だ珍(とうと)し。弟、其の人を得ざるを恐るも、之を却(かえ)さば、恐らくは不恭之誚(ひれいのそしり)を踏まん。謹んで拝謝致すを」と応えている。

 「海外に知己を得るは、殆ど夢の如し」「閣下を知己と為すは亦一生の大快事」との筆談を交わしてから5年後の明治改元を目前にした慶応3(1867)年、高杉は病に斃れる。上海から戻ってからの5年間、肺疾に悩まされながらも倒幕に向け、獅子奮迅の戦いを続けた。

 「嗟日本人因循苟且、乏果斷」。享年27歳。若すぎる死であった。

  
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