日露戦争の海戦としては、1905年5月の日本海海戦がよく知られている。従来は東郷平八郎・連合艦隊司令長官による丁字戦法が功を奏したとされてきたが、むしろ難しかったのは日本海軍がウラジオストクに向かうロシアのバルチック艦隊の航路を予測し、これを捕捉することにあった。
そもそもバルチック艦隊の目的は、日本海軍との決戦ではなくロシア極東のウラジオストク軍港に寄港し、そこから日本と朝鮮半島を結ぶシーレーンを脅かすことであった。他方、日本海軍では三次にわたって試みるも十分な海上封鎖に至らなかった「旅順港閉塞作戦」の苦い経験から、いったん軍港に逃げ込まれたロシア艦隊を撃滅するのは極めて困難であることが認識されており、バルチック艦隊がウラジオストクに入港する前に叩く必要があった。
そして強力なバルチック艦隊に対抗するためには、日本海軍も総力を上げて迎撃する必要があり、艦隊を方々に分散して待ち構える余裕はなかったので、必ずその経路を特定しなければならなかった。バルチック艦隊の最後の寄港地である上海からウラジオストクまでのルートは、対馬海峡を通る日本海ルートと、津軽海峡か宗谷海峡を通る太平洋ルートが想定されたため、これを一本に絞るために日本側はスパイを駆使して情報を集めたのである。
日露戦争で活躍した
明治政府の肝いり政策
ただし重要な情報を集めても、それを東京に送れなければ意味はない。それを可能にしたのが、海底ケーブルを活用した情報伝達であった。米国を訪問した岩倉使節団が国際電信の威力に驚き、その後、明治政府がケーブルの敷設に注力したことは本連載の第25回(2023年4月号)でも触れた。
海底ケーブルは英国が中心になって整備が進められ、欧州からインド、シンガポールを経由して、上海までが電信でつながっていた。そしてデンマークに本拠を置く大北電信会社が、1873年に長崎と上海、長崎とウラジオストクを結ぶ電信を敷設したことにより、日本は世界と電信を通じてつながったのである。さらに国内でも東京~長崎間の電信が架設されることで、東京と世界の各都市も結ばれることになった。
その後、83年には佐賀の呼子から韓国の釜山にも海底ケーブルが引かれ、朝鮮半島への情報伝達も容易になった。94年の日清戦争では、この通信網が利用されることになる。その後、児玉源太郎・陸軍次官が海底ケーブルの敷設に注力し、九州から台湾、中国大陸間の通信回線が開通し、朝鮮半島との間にも何重もの軍用水底線(コダマ・ケーブル)が敷き詰められたのである。こうして日本は、朝鮮半島、台湾、中国大陸、シベリアとの通信網を築き上げていき、これが日露戦争でも生かされることになる。
他方、50隻もの艦艇からなるバルチック艦隊は、1904年10月15日にバルト海沿岸のリバウを出港、7カ月もの期間をかけて1.8万海里を回航し、東アジアに到達してきた。日本外務省と海軍は自らの情報員による情報収集に注力し、関係各国にも情報提供を願い出ていた。