人類の歴史において、情報を速く、安全に、遠くへ伝えるのは苦難の連続であった。特に戦場の最前線の情報を司令部に通知することや、外国からの情報をいち早く入手するためにさまざまな工夫がなされたが、その過程で伝達が遅れたり、敵に情報が漏れる、といった失敗も多かった。
最も古い情報伝達の手段は、人間が自らの足で情報を運ぶことである。有名な紀元前490年のマラトンの戦いでは、ギリシャ連合軍がペルシア軍に対して勝利し、その結果をギリシャ兵が約40キロメートル(以下、㎞)走り抜いてアテナイに知らせたという逸話が残っている。人間の移動速度は速くてもせいぜい時速10㎞程度で、1日に50㎞以上移動するのはなかなか難しい。
また移動中に文書が敵に奪われる可能性もあるため、ローマの軍人カエサルは、秘匿性を高めるために文書の暗号化に余念がなかった。馬だともう少し速く、遠くまで情報が運べるが、それでも時速40㎞前後、移動距離も1日100㎞程度であったという。
世界中で広く利用されたのは伝書鳩で、時速70㎞、1日200㎞以上も移動できるので、欧州では主に通信社などがこれを活用した。19世紀半ばにはアントワープだけで2・5万羽もの伝書鳩が利用されていたという。
徳川家康もこだわった情報伝達の速度
情報伝達に時間がかかるのが普通であった時代、為政者や軍人は、政策や作戦を遂行する際、その時間を考慮しておく必要があった。
1600年、石田三成の挙兵を知った徳川家康は、下野国小山の陣で2週間以上過ごしている。いわゆる小山評定と呼ばれるものだが、これは家康が全国の有力大名に書状を送り、その返事を待つために同地にとどまっていたともいわれている。当時は関東から関西に書状を送ると、それが届くまでに1週間近くかかったので、返事を待つには2週間は必要ということになる。
続く関ケ原の戦いにおいても、同地付近まで進出した家康は、徳川の主力部隊を率いて合流するはずの徳川秀忠の到着を待ち続けた。しかしこの時、秀忠軍は真田昌幸が守る信濃上田城で足止めされており、遂に関ケ原への到着は叶わなかった。
秀忠が到着しないことに業を煮やした家康は、その所在を確かめるために手を尽くしたが、結局、秀忠軍が到着しないまま戦を始めざるを得なかったのである。これに懲りた家康は、戦の翌年、馬をリレー形式で走らせる伝馬制度を整備し、情報の伝達速度を引き上げることになる。
その後、江戸時代に入ると、「旗振通信」という、旗を持った人間を等間隔に並べリレー形式で簡単な情報を送る制度が導入された。これは主に大阪での米相場の価格を京都や大津に知らせるもので、5分弱で大阪から京都まで情報を伝えることができたという。その威力に幕府は何度も禁止令を出したほどである。
欧州でも旗振通信を高度化した、「腕木信号」が発明されている。これは人間の代わりに、塔を建て、その頂上に可動式の木製の腕を3本備えたものである。この腕木信号も等間隔(約10㎞)に配置することによって、分速12㎞以上という速度で情報を伝えることができた。フランスは19世紀半ばまでに国内の腕木信号網を整備しており、塔の数は550以上、その通信網は5700㎞にも及んだ。かのナポレオンもこの通信網を軍事作戦で活用していたという。
ただ、この腕木信号は設置費用がかかることに加え、見渡しの良い場所に設置されていたため、腕の組み合わせでどのような情報を送るかを知っていれば、内容は筒抜けとなる。実際、当時の新聞記者は、腕木信号から情報を得ていたとされる。ただし海を隔てた英国では、設備導入のコストの高さから、この仕組みはあまり広まらなかった。