カール・マルクスは共産主義の父として、20世紀の世界の行く末に多大な影響を及ぼした。しかし彼が生きた19世紀には、共産主義革命は実現しなかったのである。
これはもちろん当時の社会情勢や、マルクス自身がどのように革命を成し遂げるべきかを突き詰めなかったことに加えて、フランスやオーストリア、プロイセンなどの欧州各国で19世紀に秘密警察が組織され、常に革命の芽を監視し、必要があれば弾圧していたことも大きい。各国の秘密警察にとって、当時のマルクスは最も警戒すべき人物であり、本人が気づかぬまま生涯監視下に置かれていた。そのため彼の生存中に共産主義革命が起こらなかったのは、必然でもあったのである。
そしてこの発達した秘密警察組織は、20世紀に入ると、公安・防諜組織へと進化していく。
各国で監視を徹底された要注意人物
ナポレオン戦争の後、欧州は勢力均衡による平和の時代が比較的長く続いた。そのため各国にとって重要な情報は、対外情報や軍事情報よりも、国内の治安情報であった。
特に大陸ヨーロッパでは1848年に革命が起こり、各国政府は革命の波及を恐れて国内の監視体制を確立したのである。そしてこのような時代にマルクスが社会主義革命を夢想したのも、それなりの理由があった。同年2月にフランスで革命が生じると、それに同調しようとしていたマルクスは、革命の波及を警戒したベルギー警察に逮捕されている。
マルクスはその後、ベルギーから追放される形でパリに居を構えたが、そこでもフランス警察からの執拗な監視や脅迫に直面し、1年余りでロンドンに退避することになる。しかし、ロンドンでもロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)とプロイセンの秘密警察の監視下に置かれる。スコットランド・ヤードはジョン・サンダースという人物を雇って、マルクスの周辺を調査していた。
より徹底していたのはプロイセン秘密警察で、マルクス監視のためにロンドンに送り込まれたのは、後に秘密警察の長となるヴィルヘルム・シュティーバーであった。彼はジャーナリストとしてシュミットという偽名を使い、マルクスの周辺を探ることになる。
シュティーバーは、マルクスらが英国のヴィクトリア女王をはじめとする欧州各国の王室関係者を殺害する計画を立てていると報告しており、その脅威を過度に強調する傾向があったようだ。また彼はマルクス邸を訪問しては、さまざまな書類をこっそりと拝借していたようで、その中にはプロイセン国内で活動中の共産主義者のリストがあった。52年のケルン裁判ではこのリストが証拠として採用され、11人中7人が、48年3月のドイツ革命に携わった罪で懲役刑が確定している。
またプロイセン秘密警察は、マルクスが信頼していたハンガリー出身のジャーナリスト、ヤーノシュ・バンギャとも協力関係にあった。バンギャはマルクスの邸宅や共産党大会にも出入りしており、マルクスの日々の様子を、秘密警察に報告していたのである。
その後、71年3月に普仏戦争でのフランスの敗北に端を発する、初のプロレタリアート独裁を宣言したパリ・コミューン(革命自治体)が結成されると、マルクスは直接関与していなかったものの、コミューンへの支持を表明した。この時、反コミューン派のフランス政府は偽造文書を捏造し、コミューンの背後にはマルクスがいると主張したのである。
英国の『ペル・メル・ガゼット』紙はこれを取り上げ、「巨大な陰謀の頭領」と題した記事で、コミューンの混乱の責任がマルクスにあることを指摘した。これに対してマルクスは、政府機関の手による偽造で、信用するに値しないと反論している。マルクスが何らかの情報や確信を持っていたのかは定かではないが、この反論は正確であった。
しかし、パリ・コミューンの混乱の影響は大きく、世間一般にはマルクスが何らかの形でそこに関与していたことが信じられたため、プロイセンの秘密警察とスコットランド・ヤードは、引き続き要注意人物としてマルクスの監視を続けた。
74年にマルクスは英国籍の取得を申請しているが、英内務省はスコットランド・ヤードの報告に基づいて、それを却下している。報告書には、マルクスがドイツの悪名高い扇動家であり、共産主義の庇護者であるため、英国と王室に忠誠を誓うことはないだろう、と記されていた。
マルクスは生まれ故郷のドイツ(71年に統一)政府からも疎んじられ、77年以降、祖国に戻ることもできなくなった。これはドイツの宰相、オットー・フォン・ビスマルクの意向によるところが大きい。そのため晩年のマルクスは欧州各地を放浪することになり、遂に共産主義革命を果たすことなくその生涯を終えている。