2024年4月21日(日)

INTELLIGENCE MIND

2023年3月27日

明治政府を動かした電信の発明

 劇的に情勢が変わったのは、電信の発明によってであろう。

 1844年に米国で電流とモールス信号の組み合わせによって、情報を伝える手段が生み出されると、広大な植民地を抱えていた英国はこれに飛びつき、66年には早くも大西洋に海底ケーブルが敷設されている。ちなみに海底ケーブルで電報を送るには20語で100ドル程度かかった。これは当時の労働者の数カ月分の賃金に相当するほど高価なものだった。

 逆に腕木信号に頼っていたフランスは、この流れに乗り遅れることになる。こうして情報は電流のスピードで、国を越えて即座に伝えられるようになり、それは戦争や外交の様相を一変させたのである。

 情報が迅速に伝わるようになると、為政者や軍人は即断即決が迫られるようになった。53年のクリミア戦争では、戦場の様子がほぼリアルタイムで英国本土に報告され、新聞報道も過熱したので、英軍の将官たちは世論の対処に苦慮したという。

 そして電信網はセキュリティーの観点から、暗号化されることが普通になった。当時世界の3分の1の国際電信網を有していた英国は、67年に大西洋横断通信を暗号化している。しかしこの時代、どの国も海底ケーブルから情報を収集することを思いつかなかったのか、その後しばらく海底ケーブルに対する通信傍受が行われた記録は見当たらない。

 98年に英国政府は戦時における海底通信ケーブルの管理を検討しており、有事における敵国ケーブルの切断が決定され、さらに英国領を通過するケーブル内の通信検閲も認められた。これは通信傍受活動の先駆けとなった。

 他方、日本で電信を初めて利用したのは有名な岩倉使節団であった。同使節団は横浜から蒸気船で22日かけてサンフランシスコに到着し、そこから日本に向けて「日本大使無事に御着相成候義を政府へ為御知申候」と一団の米国到着を電報で知らせている。

 この電報は、サンフランシスコから米大陸を横断し、大西洋海底ケーブルで英国、欧州大陸、中東、インド、中国を経由して、わずか1日で長崎に到着したのである。ただし日本国内ではまだ電信が整備されておらず、長崎から東京までは飛脚が使われたため、国内の情報伝達には10日を要したという。

 いずれにしても当時の日本人の感覚からすれば、1日で米国から日本まで情報を知らせることができる電信技術というのは、驚愕すべきものであった。こうして明治政府は、国内の電信網の整備に加え、海底ケーブルによって日本と諸外国を結ぶことに注力し、それが後の日清、日露戦争で活用されることになる。

   
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