フランスからの情報によって同艦隊がマダガスカルを出港したことを察知した外務省は、アジア各所に艦隊に関する情報収集を命じており、シンガポール、香港、さらに05年5月19日にはフィリピンと台湾の間のバシー海峡付近で同艦隊の所在を確認している。しかしその後、バルチック艦隊の動静に関する情報は入ってこなかったため、日本海軍は位置を特定しかねており、艦隊が既に太平洋から津軽海峡に向かっていると判断した日本海軍連合艦隊は、バルチック艦隊を捕捉すべく北進する決定を下した。
しかし同月26日零時過ぎ、上海からバルチック艦隊が入港したとの情報がもたらされたのである。海上自衛隊の楠公一氏の研究によると、当時、上海においては外務省の小田切万寿之助総領事が英国人を、さらには三井物産の上海支店長を雇ってロシアに関する情報を収集、日本海軍も宮地民三郎大尉が「三村竹三」という偽名で情報収集活動をしており、日本側がアンテナを張り巡らせているところに、バルチック艦隊が上海入りしたようである。
謎多き水先案内人
値千金の情報とは
この時、決定的な情報をもたらしたのは、上海呉淞(ウースン)港の水先案内人、「レー」という人物であった。この人物については明らかになっていないが、通常、港湾の水先案内人は、艦艇に乗り込んで船の停泊場所まで誘導する係であり、その際に艦艇の乗組員から情報を得ることができる。
この「レー」なる人物が日本総領事館と間接的につながっており、彼はバルチック艦隊の航路について「対馬海峡を通過して浦塩(ウラジオ)に至る」との情報と、バルチック艦隊が艦船の燃料を運ぶ給炭艦を上海に残していくことを伝えてきた。これは上海を出港した後、艦隊の燃料補給は不必要ということ、つまり艦隊は上海から最短ルートである対馬海峡を通過するであろうことを示唆していた。
これが値千金の情報であった。既述したように、上海・長崎・東京間には電信ケーブルが敷設されていたので、この情報は26日の未明に東京まで伝えられ、さらに海軍軍令部は朝鮮半島の鎮海湾に停泊していた旗艦「三笠」にも転送している。ここでも海底ケーブルが活用されたのである。日本海軍連合艦隊は、推測に基づき北進する予定を急遽取りやめ、対馬海峡を通過するバルチック艦隊を迎撃する方針に転換したのである。
早速、日本海軍の「信濃丸」が対馬海峡の索敵を開始し、27日午前4時47分に「敵艦隊の煤煙らしきもの見ゆ」とバルチック艦隊発見の報を送るに至った。この情報伝達は、当時最新鋭の無線機「36式無線電信機」によって「三笠」に伝えられている。その1時間後、有名な秋山真之中佐の手による「天気晴朗ナレドモ浪高シ」の出撃命令が下され、日本海軍連合艦隊はバルチック艦隊との決戦に挑み、これを撃滅することに成功したのである。
日本海海戦における劇的な勝利は、外務省の情報収集力と情報を基にした日本海軍の柔軟な作戦、そして事前に情報インフラを整備した明治のリーダーたちの卓見によるところも大きかったのである。