現在の日本政府のインテリジェンスは、諸外国と比較するとそれほど本格的なものとは映らない。そのためインテリジェンスの機能強化が叫ばれて久しいが、これに対する反対意見として必ず挙げられるのは「日本人は農耕民族なので、インテリジェンスのような世界は不向きだ」というものだ。
しかし近代における日本のインテリジェンス史を紐解けば、これが必ずしも的を射た意見とはいえない。日本人は古くから海外に関する情報を収集し、それを基に対外政策を検討してきたのである。
広範な情報網を有した
江戸幕府
江戸時代の対外政策といえば鎖国がよく知られているが、これは主にキリスト教の布教禁止と日本人の海外渡航を禁止する目的であり、外国とのつながりを完全に断つような政策ではなかった。むしろ幕府は積極的に海外情勢に関する情報を収集していたともいえる。
幕末維新史が専門の岩下哲典・東洋大学教授の研究によると、江戸幕府は長崎からはオランダ、蝦夷からはロシア、琉球、対馬からは朝鮮、中国につながる情報ネットワークを有しており、それは当時としては相当広範なものであったという。
例えば19世紀初頭にナポレオンが欧州を席巻した情報については、1811年に幕府が捕らえたロシアの軍人、ゴロヴニンらから伝えられたとされる。幕府は情報の裏を取るべく、長崎のオランダ商館に確認を取っているが、本国がナポレオンに併合されたオランダ商館長は黙秘したという。しかしその後、思想家の頼山陽はナポレオンのことを知ると感銘を受け、「仏郎王歌」という詩まで詠んでおり、当時の日本でもナポレオンのことが広まったという。
さらにその後、幕府は長崎のオランダ商館を通じて、アヘン戦争で清国が英国に敗北した情報を得ることになるが、これは日本の安全保障に関わる問題でもあり、幕府は英国に対する警戒感を高めた。その後の53年のペリー来訪についても、幕府にとっては寝耳に水の出来事ではなく、約1年前からペリーが蒸気船を率いて、通商交渉のために日本にやってくることを察知していたのである。この情報源も長崎のオランダ商館からであった。
実際にペリーらが日本に上陸すると、その随員たちは完璧なオランダ語を操る幕府の通訳や、日本人が当時計画中であったパナマ運河の建設について質問してきたことに驚いたという。他方、ペリーの来訪に脅威を感じた幕府は、東京湾に6基の台場(砲台)を築き、江戸の防備を固めたのである。
幕府からすれば、ナポレオンの欧州制覇については「遠い世界の出来事」であり、それは知識として知っておけばよいことであった。しかし、西欧列強の勢力が徐々に東アジアに伸張してくるにつれ、諸外国の情報は日本の安全保障と直結するようになり、何らかの対応策が迫られるようになっていく。