特に問題となったのは、61年のロシア軍艦「ポサドニック」号による対馬進出であった。当時の対馬は北から南進してくるロシア勢力と、南から北進してくる英国勢力とのちょうど中間点であり、事は幕府だけの問題ではなかった。幕府は外交奉行であった小栗忠順による外交交渉を試みたが、頓挫してしまい、最終的には英国の介入によってロシアを退去させることになる。既に英露は、クリミア半島、アフガニスタンで激突しており、極東においても対馬をめぐって対立したことになる。
こうして日本は西欧列強間の対立に巻き込まれていくことになり、安全保障の面からも海外情報の重要性が認識されたのである。
中国大陸における
情報収集の嚆矢
明治時代の元勲たちは、このような西欧列強の対外脅威や、国内における戊辰戦争といった動乱の経験から、情報の重要性をよく認識していた。そのため明治政府は対外情報の収集に余念がなかった。
71年に日本陸海軍が設置されると、日本陸軍は英国帰りの福原和勝・陸軍大佐を在清公使館付陸軍武官に任命して、中国大陸における情報収集活動に着手した。その後、83年には開成学校(後の東京大学)出身の福島安正・陸軍大尉が清国に派遣されている。
福島は英・仏・独・中国語に堪能であったため、その後、ベルリンにも派遣されており、ベルリンからウラジオストクまで、1万4000㌔メートルを488日かけて単騎横断し、シベリア鉄道の建設状況について調べ上げたことでもよく知られている。
さらに86年には荒尾精・陸軍大尉が中国に赴任する。この時、荒尾を援助したのが、上海で薬を扱う楽善堂を運営していた実業家の岸田吟香であった。情報収集の必要性を感じていた岸田は、楽善堂の漢口支店を荒尾に任せ、そこを情報収集の拠点として、活動が始まった。支店は北京、重慶、長沙に拡大し、それぞれの支店では日本人が現地中国人に扮して情報活動を進めたのである。
こうして荒尾は帰国すると、2万6000字もの現地報告書を参謀本部に提出している。福島や荒尾の活動は、中国大陸における日本陸軍の情報活動の嚆矢となり、その後も荒尾は上海に日清貿易研究所(後の東亜同文書院)を設置して、情報活動を継続した。
外交史に詳しい関誠・帝塚山大学准教授の研究によると、日本陸軍は90年頃までに清国内に6~7カ所の公館を設置し、常時15~16人の情報将校を配置して、清国の軍事力に関する膨大な情報を収集していた。海軍も4~6人の情報将校を張り付けることで、清国の海軍力について調査を行っていたという。
84年以降、清国は海軍力の増強に努めており、日本海軍との総トン数は数倍以上もの開きがあった。清国から見れば日本はまだ小国であったこともあり、清国側は情報保全については脇も甘かった。清の北洋艦隊は日本を訪問すると艦の内部を公開するほどで、日本側はこのような機会を見逃さず、情報収集に努めたのである。そして日本海軍は、清国に追いつき追い越すべく軍拡に注力し、日清戦争開戦時にはほぼ互角の海軍力を整備することになった。
そうなると大国と見られていた清国も、倒せない相手ではなくなるため、清国との戦争に躊躇していた伊藤博文や山県有朋ら政府の有力者も日清開戦を受け入れることになるのである。
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「花粉症は多くの国民を悩ませ続けている社会問題(中略)国民に解決に向けた道筋を示したい」
岸田文雄首相は4月14日に行われた第1回花粉症に関する関係閣僚会議に出席し、こう述べた。スギの伐採加速化も掲げられ、安堵した読者もいたかもしれない。
だが、日本の林業(林政)はこうした政治発言に左右されてきた歴史と言っても過言ではない。
国は今、こう考えているようだ。
〈戦後に植林されたスギやヒノキの人工林は伐り時を迎えている。森林資源を活用すれば、林業は成長産業となり、その結果、森林の公益的機能も維持される〉
「林業の成長産業化」路線である。カーボンニュートラルの潮流がこれに拍車をかける。木材利用が推奨され、次々に高層木造建築の施工計画が立ち上がり、木材生産量や自給率など、統計上の数字は年々上昇・改善しているといえる。
だが、現場の捉え方は全く違う。
国が金科玉条のごとく「林業の成長産業化」路線を掲げた結果、市場では供給過多の状況が続き、木材価格の低下に歯止めがかからないからだ。その結果、森林所有者である山元には利益が還元されず、伐採跡地の再造林は3割しか進んでいない。今まさに、日本の林業は“瀕死”の状況にある。
これらを生み出している要因の一つとして、さまざまな形で支給される総額3000億円近くの補助金の活用方法についても今後再検討が必要だろう。補助金獲得が目的化するというモラルハザードが起こりやすいからだ。
さらに日本は、目先の「成長」を追い求めすぎるあまり、「持続可能な森林管理」の観点からも、世界的な潮流に逆行していると言わざるを得ない。まさに「木を見て森を見ず」の林政ではないか。
一方で、希望もある。現場を歩くと、森林所有者や森林組合、製材加工業者など、“現場発”の新たな取り組みを始める頼もしい改革者たちの存在があるからだ。
瀕死の林業、再生へ─。その処方箋を示そう。