脱亜入欧の中で伝え続けた日本文化
天心の行動原理を一言で表せば、〈美術〉を通して日本の伝統文化を近代国家の仕組みのなかの「正統」として位置づけようという「官僚」のそれである、と松本清張は断じている(『岡倉天心 その内なる敵』河出文庫)。東京美術学校の校長として采配を持って日本の伝統を世界に伝えてゆく歩みは、確かにその優れた官僚性によっているが、同時に彼のしたたかな自己演出の才覚が、〈日本〉を世界に示して見せる有力な場面を作ったことを忘れてはなるまい。
それはのちに彼が校長となって、89(明治22)年に第一期生65人を迎えた東京美術学校(現・東京芸術大学)の制服にもあらわれている。
脱亜入欧のかけ声とともに、すでに洋髪と洋服が普及した時代であったが、採用したのははるか天平の時代の朝服に範をとった制服である。風俗史の教授の黒川真頼がデザインした上衣は羅紗で作った闕腋袍(けってきのほう)に筒袖、袴は表袴の裾をひもでくくる。靴は麻沓。帽子は侍の折烏帽子(おりえぼし)に似たやはり天平風のもので、教官と学生がともどもこの制服でキャンパスや上野の街を闊歩すると、街の人々は「神主の学校ができた」と噂した。
天心はこの制服に愛着を寄せ、自身も古代風の衣装で愛馬にまたがって通勤した。欧化の波のなかで、それに抗する天心一流の国粋的な美学の視覚化であった。
横浜の居留地育ちという国際感覚にくわえて、天心は美術への優れた鑑識眼と該博な知識をもっていたが、人を見出してその舞台を作るプロデューサーとしての仕事に面目躍如たるものがあった。西洋文明の覇権に対抗して日本美術を〈アジア〉の表現として世界に示して見せることを天命と心得ていたから、日本初の美術学校設立を目指した欧米視察の旅はその檜舞台である。欧米各地の美術館や博物館をくまなく視察し、美術教育の仕組みを調べ、日本から発信する文化はどうあるべきかが問われている。
横浜から出港した〈シティー・オブ・ペキン〉号の船客となった天心は、三つ揃いの背広服で過したが、船上でインド人の相客がターバンやサリーなどの民族衣装で振る舞っているのを見て早速、自身も羽織袴に改めることにした。米国へ上陸したのちも、官庁や美術館など人目に付く公式の訪問の際には家紋に入った羽織袴姿でのぞみ、〈日本人〉を視覚的に人々に印象付けることに腐心した。それが米国人の耳目を集めたのはいうまでもない。
日本の伝統美術の収集家で修復保存の専門家でもあったウィリアム・ビゲローや、やはり日本に滞在した米国人画家のジョン・ラ・ファージもくわえた天心の一行は、サンフランシスコから、ボストン、ニューヨーク、ワシントンを巡り、各地で歓迎された。
年が明けると大西洋を渡って英国、フランス、イタリア、スペイン、オーストリアなど欧州各国で美術館や美術教育の実情を調べたのち、再び大西洋を渡って米国へ戻った。かつての文部省の上司でいまは米国公使としてワシントンに駐在している九鬼隆一を訪ねたが、それが天心の運命を変えるとは、微塵も予想しなかったに違いない。
九鬼は旧摂津三田藩士から慶應義塾に学び、文部官僚として行政にかかわったのち1884(明治17)年、米国ワシントンに全権公使として赴任した。その際、同行した妻の波津子は花柳界出身の評判の女性だったが、滞米中に孤独と不安から精神の安定を崩し、九鬼から頼まれて欧米視察から帰国する天心が単身の帰国に同道したのである。
それが縁となって二人は道ならぬ関係におちいり、のちに天心のスキャンダルとなって冒頭の怪文書騒動につながる。ついには東京美術学校校長に座を追われるのである。
〈谷中鶯 初音の血に染む紅梅花
堂々男子は死んでもよい
気骨侠骨 開落栄枯は何のその
堂々男子は死んでもよい〉
怪文書騒動をきっかけに天心が東京美術学校校長の職を解かれて下野し、連訣辞職した橋本雅邦、下村観山、横山大観といった美術学校の若手教員ら26人の同志が、東京・谷中に「日本美術院」を発足させた時、仲間の間でうたわれた俗謡である。
この悲壮とも投げやりとも聞こえる歌が、顕職を追われた当時の天心と発足した「日本美術院」の周辺をとりまく気分をあらわしている。