このうち「崇爻の薛坡蘭」は、花蓮県・静浦にある秀姑巒(シウグールアン)渓の河口である(参考:鄭海麟「黄叔璥《台海使槎録》所記「釣魚台」及「崇爻之薛坡蘭」考」『海峡評論』269期、2013年5月号。http://www.haixiainfo.com.tw/269-8797.html)。筆者の手許にある台湾道路地図(『台湾公路達人地図大全』戸外生活図書、2007年)を見ると、河口には小さな島「奚卜蘭(シブラン)島」が示されている。「シュエポーラン」と「シブラン」が極めて近似し、アミ族の地名に似た音の異なる漢字が当てられたと見なしうることからして、この記録は鳳山から反時計回りに花蓮県・静浦に至るまでの湾泊一覧であることが分かる。その途中、バシー海峡から太平洋に回り込んだ後に現れる、小島を伴った天然の良港こそが「釣魚台」ということになるが、地形に鑑みてそれは現在の台東県成功鎮ということになろう。ここには風光明媚な岩礁の島「三仙台」があり、厳密にはこれが「釣魚台」であろうか。
ちなみに「山後の大洋、北に釣魚台あり」について、台湾=中華民国外交部公式HP所収「釣魚台列島は中華民国の固有領土」は、「山=台湾」と見なし、「台湾の大洋の北」とする。しかし、ふつう台湾で「山後・後山」といえば、1870年代まで清の台湾支配が西半分・北東にとどまっていたという経緯の連続で、台湾を貫く高い山脈の東に当たる今日の花蓮県・台東県を指すのが一般的である。そこに広がる大洋とは、花蓮・台東県沿いの海と考えるのが自然だと思うのは筆者だけであろうか。
もし本書が尖閣に言及しているのであれば、明代の時点で既に何となく、「釣魚嶼」は大陸から見て鶏籠嶼=台湾の左隣に記されていた以上、さらに続きとして台湾北東部=今日の宜蘭県の地名に続いて出て来るのが自然である。しかし本書はそうではない。しかも先述の通り、台湾の極北は今日の基隆と記されている。
「釣魚台」はありふれた地名
そこで今度は、今日の宜蘭県について言及した史料を見てみよう。中国が「台湾駐在官吏による釣魚島管理の証拠」として挙げるもう一冊の書物『重纂福建通志』(1871年)の「釣魚台」は、宜蘭県の前身である噶瑪蘭(クヴァラン)庁の地名を列挙する中で現れる。
曰く、まずクヴァラン庁の最北端は「三貂」であるという。今日の新北市・福隆の街にほど近い岬「三貂角」のことである。この時点で、基隆の北東はるか沖にある「釣魚嶼」の話をしているのではないことが分かる。ここから南へ向かって順番に、烏石港、亀嶼(亀山島)、五圍城(宜蘭)、蘇澳といった地名が現れ、その先に『台海使槎録』と同じく「後山の大洋、北に釣魚台、港は深く大船千艘を泊めうる。崇爻の薛坡蘭、杉板船を進めうる」とある。当時の台湾東海岸における清の支配は蘇澳までであり、そこから南の花蓮・台東は依然「生蕃」が住む伝聞の世界である。