では、明を継いだ清の時代における「釣魚嶼への管理・海防管轄」はどうであったか。清は引き続き、琉球への航海は琉球人に頼ったほか、明の遺臣である鄭氏を滅ぼして台湾西部を領有したのちも、台湾東部は長らく「生蕃」として放置し管理していなかった。このような中、尖閣が無主の標識的存在であった状態は清代も引き続いていたと考えられる。
「台湾極北」よりはるか北東に浮かぶ尖閣
それにもかかわらず、中国が『釣魚島白書』にて(そして台湾も外交部公式HPにて)、清代の地方志である『台海使槎録』(黄叔璥、1736年)にみられる「釣魚台」に着目して「釣魚嶼への管理」を主張することは疑問の余地が大きい。
本書はまず「巻二・武備」で「鶏籠(基隆)、澹水(淡水)こそ台湾極北である」と明記している。したがって、そのはるか北東に浮かぶ尖閣は歴史的に「台湾の一部分」ではないことが、当時の地方官の記録から明らかとなった。
さらに本書は海防策について、「水師は外洋で戦うことは出来ず、港湾内に進んで交戦するため、湾泊こそが戦争の場である」と述べている。明代に引き続き、人が住む沿岸・港湾こそが海防の舞台であるという認識であり、荒波を越えて遠洋の無人島に遠征し海防範囲とすることは想定されていない。
そもそも、本書で「釣魚台」が現れるのは、現在の高雄市・鳳山から出発して、台湾海峡沿いに反時計回りで南下したときに現れる漁港・湾泊を列挙した文章においてである。この中では鳳山に続いて、枋寮・加六堂(加禄)といった地名が続くが、台湾の地理に詳しい人であれば即座に「これは今日の屏東県から台東県へと向かう台湾南端部の話であり、「台湾の極北」たる鶏籠=基隆の北へと飛躍するものではないと分かる。
この地名列挙は途中、フィリピンと台湾を隔てるバシー海峡から東について「今、塞において尽き、小漁船のみが往来す」と記し、現在の台東県・花蓮県部分については官の実効支配が及ばない世界であることが暗に示される。そして最後に「山後の大洋、北には釣魚台という山があり、大船十余を泊めうる。崇爻(チョンシャオ)の薛坡蘭(シュエポーラン)、杉板船を進めうる」と記されて締めくくられる。