2024年4月20日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2015年4月27日

 したがって、ここでいう「釣魚台」は、蘇澳から南に下る中で現れる地名である。南に下った蘇澳から突如遙か北東かつ遠洋の尖閣に言及したのち、また一気に南に戻って花蓮県・静浦に向かうとは思えない。恐らくここでの「釣魚台」は花蓮を指すのであろう(尖閣は港が深いとは言えまい)。あるいは「千」と「十」を誤植したと見なせば、それなりの船が停泊しうる今日の成功鎮を指すとも言える。1870年に至っても実効支配していない土地については、『台海使槎録』の記述をそのまま参考にしたのかも知れない。

 「釣魚台」という地名は、中国の迎賓館はもとより、各地にありそうなありふれたものである。しかし中国(そして台湾)政府は、「釣魚嶼への管理」を何としても史料中から見つけ出そうとして「釣魚台」に当たり、詳しい地名・地理考証を省略したのであろうか。

史料の全体像に基づいて考えるべき

 総じて言えば、尖閣は台湾の一部分ではない。明代における鄭舜功『日本一鑑』の言及はその後の継続性がないし、尖閣を大陸と同じピンクに塗った林子平の地図(ピンクは小笠原やカムチャツカなど他の場所にも塗られている)も、台湾と尖閣を同じ色には塗っていない。中国は、漢文史料に現れる「釣魚」がどのような文脈で用いられ、当時の海域利用や海防意識・地理認識がどのようなものであったか、とりわけどれほど持続的に「釣魚島が台湾の一部分」だったのか、そして自国が近現代史においてどのように地図や公文書を発行してきたのかという問題をもっと顧慮するべきではないのか。

 翻って1969年の福建省地図に戻ると、この中に尖閣が枠を超えて示されているのは、結局のところ明代の海防図と同じ発想なのであろう。有効に管理しているわけではないが、倭寇が巣喰うかも知れない要注意地点として認知しておく。これと同様に、1969年の尖閣も米国施政下にあり、米ソ両国と対峙していた中国に突きつけられた刃のような存在である以上、敢えて要注意地点として特別扱いし、尖閣という名称を枠外ながら載せたということなのであろう。

 中国は「歴史を鑑とする」を座右の銘とするのであれば、今こそ歴史を鑑として、史料にあらわれる固有名詞だけではなく、史料の全体像に基づいて考えるよう望みたい。

 中国がそのようにせず、とくに2012年以後しばらく不穏当な手段に訴え、今日でも依然として無理のある主張をするからこそ、筆者としては、彼らが主導する国際金融の枠組みに日本も参加して深く引き込まれたのち、改めて中国側の一方的な手法に直面するという事態を恐れる。そして多くの日本人も同じく、このような事態に陥ることを望まないだろう。

 筆者が思うに、真の日本を知りたいと望む中国人観光客に対する歓迎と、ここ数年来の中国の作為に対する警戒感(世論調査における対中国観の悪化)の高まりは、曲がりなりにも平和主義に徹し、中国の発展にも協力を惜しまなかった日本の同じ根本から発したものである。中国はいたずらに「第二次大戦の結果を無視するトラブルメーカー日本」と非難する前に、まずこのような日本の現実をありのままに認識して頂きたいものである。それこそが、今般の安倍・習近平会談の意義を実体化するための重要な基礎となるだろう。

  
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