<アンドレアス・エッガーは障害者と見なされてはいたが、逞しい男だった。よく働き、要求は少なく、ほぼ何も話さず、畑に照りつける日光にも、森のなかの刺すような寒さにも、びくともしなかった。どんな仕事も引き受け、確実にやり遂げ、不平は言わなかった>(浅井晶子訳)。
オーストリアの作家、ローベルト・ゼーターラーの小説『ある一生』(2014年、新潮社)からの引用である。この作家の16年来の友人、ハンス・シュタインビッヒラー監督による同名映画が7月12日、日本でロードショー公開される。
山に生きた名もなき男の生涯を追った物語だ。アルプスの美しさもさることながら、主人公の素朴さ、苦難の中でも笑みを絶やさない生き方が心をとらえる。もしかしたら、自分の核の部分にもエッガーのような人格がいたかもしれないと、それぞれが生き方の内省をうながされる作品でもある。
社会の不合理にも前向きに生きる
映画は少年だったエッガーが馬車でアルプスへ分け入っていく場面で始まる。母を亡くした少年は、身内にもらわれるが、家族の食卓につかせてもらえない。サディストの農園主に執拗な折檻を受け、脚を折られ不自由な体となる。
青年となったエッガーはあるとき、農園主に反抗し家を出る。低賃金の山の仕事にありつき、生涯下働きを続ける。愛する女性との幸福なひとときもあったが、自然破壊が原因とみられる雪崩が二人の山小屋を襲う。
第二次世界大戦でのロシア抑留など艱難辛苦にさらされながらも不平一つ言わずに生き抜き、老いたエッガーは岩小屋の暮らしに満足している。そんなある日、集会場のテレビでアポロ11号の月面着陸を見た直後、エッガーは衝動的にバスに乗り、「終わりの地」を目指す。
「こんな安月給で働けるか」と搾取に怒るわけでもなく、「ロシア抑留の補償をせよ」と政府に掛け合うわけでもない。老いて知り合った女性からの唐突な誘惑に乗ることもなく、エッガーは自然と一体化するだけで満たされた生き方を貫く。
ハンス・シュタインビッヒラー監督にリモートインタビューでこんな問いをぶつけた。「仮の話、彼のような人がもっと増えていけば、世界は少しずつ、まともになっていくのではありませんか」
「それは、まさに私が考えていたことです」と監督は応じ、こう続けた。「原作『ある一生』がドイツ語圏で80万部も売れ、世界中の人に感動を与えたのは彼が一つの希望だからです。人生に対する彼の態度は欧州人に限らず、世界の人々に通じます。常に前向きに生き、山の鼓動を聞けるほど自然に接し、つらい運命を恨まず、与えられた境遇に心を満たす。そんな生き方を誰もがすれば、今よりはよほどいい世界になるはずです」