6月下旬、都内のある道場。筆者から3メートルほど離れたところに、男が真っ直ぐ立っている。男は「これから私が、あなたに跳びかかりますから、かわしてください」と静かに言う。筆者はまばたきもせずに男を見続け、動き出したらよけようと思っていた。しかし次の瞬間、男の姿は筆者の目の前にあり、男の手は筆者の喉もとで寸止めされていた。
その男、高岡英夫は、江戸時代の剣豪の領域に達さんと修行を重ねてきた武術家であり、運動科学総合研究所の所長として人間の身体の可能性を追求してきた研究者でもある。高岡は、現代人は人間に備わった運動能力の2割しか使っていないと言う。身体の中に眠れる能力を発現すれば、人間はもっと違った次元の運動ができる。筆者に高岡が見せた、漫画の1コマのような速さもその一つだ。高岡の指導によって、能力を開花させたオリンピック級のアスリートも枚挙に暇がない。
幼少期からさまざまな武術を修める。東京大学卒業、同大学院教育学研究科終了。同大学院時代に西洋科学と東洋哲学を統合した「運動科学」を創始。オリンピック選手らを指導しつつ、人間の心身統合的な能力の可能性を追求している。(撮影:田渕睦深)
身体の8割が未開能力
身体には8割の未開の能力があると考えたのは、なぜですか?
「宮本武蔵の『五輪書』には、朝から晩まで急いで走らないのに日々50里を行く人がいると書かれています。1日にだいたい8時間で200キロ走るとすると、今のマラソンの世界記録のペースを軽く超えてしまいます。しかも、よくある話という感じで書いてある。江戸時代には、そうした記録がいくつか残されています。現代の僕らの実態とかけはなれていても、これを事実とみて、人間の可能性を合理的に追求していくほうがおもしろいと考えました」
「もう一つは、人間の進化の過程から考えた理論です。人間は脊椎動物です。背骨があり、脳が幹状になって枝葉のように神経系が分かれる脊椎動物の基本構造は、魚類でほぼ完成しました。魚類がほぼその構造のまま、数億年繁栄を極めてきた事実は、魚類の背骨を波動状に動かす運動が、脊椎動物に
健康と高能力を保障することを証明しています」
「江戸時代の身体運動は、現代の僕らとは次元が違いますから、動かすシステムも違うということです。大脳の発達を背景に手足を使うという四肢運動によって文明を築いた現代人が、身体で使っていないのはどこだろうと考えると、それは体幹部です。しかも体幹部は、骨格と筋肉が緻密に使える構造をしている。江戸時代の摩訶不思議なパフォーマンスは、体幹部を極めてよく使っていた結果だと思います」