コラムの時代の愛−辺境の声−

2015年11月4日

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藤原章生 (ふじわら・あきお)

毎日新聞記者

1961年、福島県生まれ。北海道大学工学部卒業後、住友金属鉱山に入社。89年に毎日新聞社に入り、ジャーナリズムの道へ。92年に外信部に所属し、 93年にメキシコ留学。帰国後の95年から南アフリカ・ヨハネスブルグでアフリカ特派員、2002年からは、メキシコ市支局長、ラテンアメリカ特派員。08年〜12年までローマ支局長。5 年半に渡るアフリカ特派員時代の取材を元にした著書『絵はがきにされた少年』(集英社文庫)で05年の開高健ノンフィクション賞受賞。著書に、『世界はフラットにもの悲しくて』(テン・ブックス)、『資本主義の「終わりの始まり」―ギリシャ、イタリアで起きていること』 (新潮選書)、『ギリシャ危機の真実 ルポ「破綻」国家を行く』(毎日新聞社)『翻弄者』(集英社)、『ガルシア=マルケスに葬られた女』(集英社)。

 10月25日に東京・渋谷のトルコ大使館で起きた乱闘騒ぎのニュースを見ていて、その殴り方に目を奪われた。実は同じような執拗な暴行、感情の暴発を過去に見たことがある。長く封印されていた嫌な記憶がよみがえってきた。

 トルコ総選挙の在外投票に来た、日本在住のクルド系とトルコ系の対立だったが、二つの人間集団に生じる感情を考えてみたい。

iStockより

 

繰り返し殴る背景にあるレイシズム

 例えば相手を殴る際、通常であれば一発殴って応戦してこなければ、構えて待つか一服間を置くのが通常のけんかだ。しかし、NHKニュースで見た映像では短時間に相手の顔面を繰り返し殴り続けていた。一発で完全に倒せない技量の問題もあるが、そのしつこさに特殊な感情、差別、レイシズムを私は感じた。

 差別とは、外見や所属だけで相手を特定し、その属性で自分との違いを強調し確認する感情、とここでは定義しておこう。そして、その差別が絡んだ暴力を「差別的暴力」として、話を進める。

 日本で育った私は、あからさまな「差別的暴力」を目にしてこなかった。在日韓国人の友人が吐露した差別をめぐる話に、群衆による暴力はなかった。それは過去、確かにあったものだが、1961年生まれの私の世代がたまたま経験しなかっただけだ。かつてひどいことがあったものの、差別がある限り、「差別的暴力」はいつでも起こりうる、という見方もあるだろうが、ここでは可能性には立ち入らない。

 実際に「差別的暴力」を体験するようになったのは南アフリカが最初だ。私が暮らした1995年から2001年までの南アフリカは、人種隔離政策、アパルトヘイトが終わり「差別なき新たな国」を築こうとしている時期だった。

 住み始めてまもなく、顔に銃をつきつけられ、車を奪われる被害に遭った。それは知人が暮らす、ダーバン郊外の旧黒人居住区だったため、彼を介して犯人を割り出し、2日後に車を取り返した。銃武装した自警団に捕らえられた犯人に聞くと、「こんな所にカラード(混血)の野郎が来たと思ったから襲ったけど、中国人(東洋人)だったんでびっくりした」と証言した。

 銃を構える手が震え、表情に憎悪のかけらも見られなかったのは、そこに際立った差別意識がなかったからだと私は解釈した。「差別的暴力」を受けたのは、コンゴ民主共和国、旧ザイールだった。

 政府軍が逃げ出しゲリラが入ってくる直前の首都キンシャサでのこと。緊張した群集が集まる路上で撮影をしていたら、一人が「ムズング(白人)だ!」と叫びだし、それを合図にまるで火がついたように暴動が始まった。何人もの拳が私に殴りかかり、薄い紙にマッチで火をつけたような勢いで燃え上がった。

 運良くゲリラが入城し、自動小銃を立て続けに撃ったため、群衆はチリジリになり、私は殺されずにすんだ。

 白人警官による黒人少年への暴力、黒人の白人農民に対する集団リンチ、捕虜に対する兵隊たちの執拗な袋叩きーー。自分への被害は、各地で目にした暴力と同種のものだと、そのときはっきり感じた。特色はスピードと執拗さだ。そして、差別が少しわかった気がした。それは、恐怖と関係があるのではないか、と。

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