ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年10月10日

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 亀井君は、一浪して東京大学に入学します。浪人時代、私と同じ駿台予備校に通っていました。成績順でクラス分けされるのですが、亀井君は一番上の成績の午前のクラス、私は一番下の夜のクラスでしたが、模試のときなどたまに電車で見かけました。いつも通称『赤尾の豆単』(旺文社の『英語基本単語帳』)の大判を開き、一生懸命赤エンピツで線を引いて勉強していました。勉強家で努力家でした。

 その後、東京大学を卒業して、民間企業に勤めてから、一念発起して公務員試験を受け、警察庁に入ります。同い年の人から比べれば遠回りしてからの入庁だったでしょう。その後、日本赤軍テルアビブ空港事件や連合赤軍あさま山荘事件で活躍し、政治家になりました。相当の苦労人です。

下 壮而(しも・そうじ)君のこと

 実は私たちの高校には、ダントツ中のダントツの1番がいました。下 壮而(しも・そうじ)君です。

 下君の家庭は決して豊かではなく、お母さんが働いて子供2人を育てていました。抜群の学力なのですが、浪人するお金はないので、確実に入学ということで、東京大学のなかでは比較的やさしい文科Ⅲ類を受験し、現役で合格しました。

 そして、教養学部(1~2年生)でトップ、経済学部(3~4年生)でトップという成績をおさめ、公務員試験の経済職でもトップでした。どこの省庁でも行くことができたと思いますが、大学の先生のアドバイスもあって、1959年、農林水産省に入りました。

 学力だけではありません。人格・識見も実行力もずば抜けていました。私は、高校時代は畏れ多くて話せなかったのですが、社会人になってから、何度か会いに行きました。私が信越化学工業の経理・財務マンとして大蔵省に有価証券報告書を出しに行った帰りに、農林省に寄ったりしました。

 私は彼の優秀さに負けないように多弁になるのですが、彼のような本当に力のある人は寡黙です。貫禄とさわやかさが同居し、それでいて私のことを決して馬鹿にすることなく、私のレベルにそっと下りてきてくれます。本当にすばらしい人格で、いつも勉強になったことを覚えています。

『現代経済の透視』 (下壮而著、都市文化社)

 しかし、そんな下君は1983年、脳内出血で亡くなります。46歳の若さでした。お葬式の日、集まった同窓生のなかに亀井君の姿がありました。落胆して、残念そうに歯をかみしめていました。あとで聞くところによると、亀井君は、同じ公務員の先輩として、下君を大変尊敬し、頼りにしていたそうです。

 85年7月には、下君の遺稿を集めた『現代経済の透視―現代資本主義論ノート』(都市文化社)という本が刊行されました。下君の書いた論文は、「下論文」と呼ばれ、その秀逸さは霞ヶ関でも轟いていたということです。農林省内では「彼こそ将来総理大臣になるのにふさわしい」と言われたそうです。

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