古都を感じる 奈良コレクション

2009年11月18日

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西山 厚 (にしやま・あつし)

帝塚山大学教授、前奈良国立博物館学芸部長

帝塚山大学文学部文化創造学科教授。前奈良国立博物館学芸部長。徳島県鳴門市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。奈良国立博物館では「女性と仏教」など数々の特別展を企画。主な著書に『仏教発見!』(講談社現代新書)、『僧侶の書』(至文堂)など。日本の歴史・思想・文学・美術を総合的に見つめ、書き、生きた言葉で語る活動を続けている。

 近鉄西大寺駅の近くに西大寺がある。もちろん西大寺の近くにあるから西大寺駅なのだが、現在では西大寺は駅名としてのほうがよく知られているように思える。

西大寺 東塔跡から本堂をのぞむ

  西大寺は、東大寺つまり東の大寺に対する西の大寺として、奈良時代に称徳天皇と道鏡が創建した。藤原仲麻呂との戦いの勝利を祈り、称徳天皇(孝謙上皇)が金銅製の四天王像の造立を発願したのが始まりである。

 創建された当初は、興福寺や薬師寺をはるかに越える31町(約48ヘクタール)という広大な敷地に、薬師金堂・弥勒金堂・四王堂・十一面堂・東塔・西塔などが立ち並び、屋根には三彩や緑釉の瓦が使用されるなど、目を見張るばかりの壮麗な大寺院だった。

 しかし、称徳天皇が亡くなり、道鏡が東国へ左遷されると、西大寺に対する関心はうすれ、平安時代には衰退の一途をたどる。鎌倉時代には、所有していたすべての荘園を失い、田畠の中に四王堂・食堂・東塔が残るだけになっていた。これを再生したのが叡尊(1201-1290)である。

 戒律を守らない当時の僧侶のあり方に疑問をもっていた叡尊は、西大寺に持斎僧(戒律を守る僧)を置くという話を聞いて名乗りを上げ、西大寺に住むことになった。

 そしてさらに深く戒律を学んだ叡尊は、自誓受戒(仏から直接受戒する作法)をし、「興法利生」(正しい仏教をさかんにして、みんなを幸せにすること)をめざして活動を始めた。

叡尊(興正菩薩)像 西大寺

 叡尊のもとには考えに共鳴する若い僧が次第に集まり出したが、叡尊の行動を喜ばない人たちもいて、寺の門前に落書され、僧坊に矢を放たれたことさえあった。

 西大寺に住んで10年が過ぎたころ、叡尊は仲間とともに誓いを立てた。

 お釈迦さまの弟子として、生まれ変わっても、浄土へは行かず、辺地悪世に生まれ、かつてお釈迦さまがしたように、もっとも悪い世(五濁悪世〈ごじょくあくせ〉)で、諸仏の救いからもれた人々を救いたい。そのためには、地獄の苦しみも忍ぼうと叡尊は述べているが、この考えは『悲華経(ひけきょう)』という経典にもとづいている。

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