チャイナ・ウォッチャーの視点

2009年11月11日

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富坂 聰 (とみさか・さとし)

ジャーナリスト

1964年、愛知県生まれ。北京大学中文系に留学したのち、豊富な人脈を活かした中国のインサイドリポートを続ける。著書に『苛立つ中国』(文春文庫)、『中国という大難』(新潮社)、『中国官僚覆面座談会』(小学館)、『ルポ 中国「欲望大国」』(小学館新書)、『中国報道の「裏」を読め!』(講談社)、『平成海防論 国難は海からやってくる』(新潮社)、『中国の地下経済』(文春新書)、『チャイニーズ・パズル―地方から読み解く中国・習近平体制』(ウェッジ)などがある。

 2009年、日中間の話題は中国がGDPで日本を逆転することだった。この傾向は中国が次の権力継承を行う12年にはさらに顕著になると予測される。そのとき世界第2位の経済大国となった中国を率いているのが習近平国家副主席だ。

 習氏の訪日を来月に控え、いま日本で注目が集まっているが、その実、習氏の指導者像をうかがわせる情報は少ない。

 習近平がポスト胡錦濤として急浮上したのは07年の17回党大会である。筆者は大会の約1カ月前(『文藝春秋』11月号)に李克強(副総理)、汪洋(広東省書記)とともに習の政治局常務委員入りの可能性を指摘した。このとき覚えているのはポスト胡錦濤レースで下馬評にも名前の挙がっていなかった習の名を書くことに勇気が必要で、逡巡したことだ。

 結果、予測は的中したがこの意外な人事はさまざまな憶測を呼び、習抜擢の背景には多種多様な解釈が加えられることとなった。

習近平はなぜ抜擢されたのか

 その典型が共産党幹部二世のグループ「太子党」の台頭との角度からの説明だったが、それは習が故習仲勲副総理の息子であったからだ。だが、現実は習が10歳のときに父親は失脚しその後16年間拘束されていたのだから、幹部二世の恩恵を習が受けていたとは考えにくい。事実、習は父親の名誉回復に従い中央のポストが用意されたが、わざわざそれを拒否して敢えて末端のポストからそのキャリアをスタートさせたところからも独特の政治哲学の持ち主であることは明らかだ。

 そもそも日本で使われる「太子党」なるものの存在が証明されたことなどない。実際に「太子党VS団派(共産主義青年団)」の対立を記事で書く日本の特派員とて、誰ひとり「太子党」なるグループの存在を明確に説明できる者はいないのだ。事実、他の太子党とされる王岐山(副総理)、薄煕来(重慶市書記)と習の間に共通した政治目的があることを思わせる言動を習がしたこともない。

 では、習の抜擢の理由は何だろうか。

 私はむしろ、習が中央のパワーバランスの真空地帯にいたことがその理由だと考えている。実はこのことは、鄧小平以降のすべての権力者に共通している。天安門事件の混乱のなか抜擢された江沢民の名を、世界のほとんどのメディアは知らなかった。胡錦濤は早くから後継者とされていたが、就任当初は個性も特徴もない総書記と揶揄された。抜擢のキーワードは「誰からも異論の出ない人選」だ。

 しかしこのことは言い換えれば強烈な後ろ盾のない政権を意味する。そのため権力の始動時には必ずライバルからの挑戦を受け、政治権力闘争が噴出するのも特徴なのだ。

 江沢民にとっての陳希同北京市書記、胡錦濤にとっての陳良宇上海市書記がまさにそれだ。弱虫と呼ばれた江、サラリーマン総書記と呼ばれた胡が、それぞれライバルの挑戦を退けた後に急速に足元を固め、強いリーダーへと脱皮したのは偶然ではない。

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