WEDGE REPORT

2016年2月19日

「ほんまにみんなありがとう」。うつむいた澤昭裕さんは、泣いていた。「みんな、仕事に行って下さい。30年もあるんやから無理せんように」。それが、編集者として原稿を預った私が聞いた最後の言葉となった。

 体調がすぐれないので、約束していた原稿はお休みさせてほしい――。そんなメールを頂いたのは昨年12月18日のことだった。私は、福島論(Wedge1月号に掲載)のやりとりをしている最中に、次は原子力論を書いてほしいと欲をかいた。澤さんも乗り気で、11月の段階では順調に執筆中という連絡をもらっていたので、切迫感のあるメールに呆然とするほかなかった。でも、澤さんが仰っているのは「お休み」だ、そう思いなおして、「もちろん体調最優先です。回復を祈っています。良くなられたらやらせてください。聞き書きでもなんでもどのようなことでも使ってください。馳せ参じます」と夢中でメールを打ったら、「すみません、助かりました」とすぐお返事が来た。

 1月8日夜、携帯電話が鳴った。「あの原稿、仕上げたいので、明日病室に来てくれませんか」。もちろんです、とお答えしながら、崩れ落ちた。澤さんはいつも、自らの手で完璧に原稿を仕上げる方だったからだ。

 1月9日朝、聖路加国際病院の病室で、国際環境経済研究所で長年研究のパートナーをされていた竹内純子さんや私を前に、澤さんは、淡々と仰った。年末年始、病状が思わしくなく、主治医によると余命が1カ月を切ったから、みんなの力を借りて原稿を仕上げたい――。

 その後2回、1月13日と14日に訪問した。思考力の維持のためモルヒネの量を調節しているのか、日に日に痛みが増しているようだった。徐々にメールも読めなくなり発声もしづらくなった。それでも懸命に推敲の指示を出された。14日、原稿が完成したとき、かけていただいたのが冒頭の言葉だった。

 2日後の1月16日2時39分。澤さんは、息を引き取った。58歳の若さだった。

 澤さんの妻・伊津美さんが、澤さんの最期の1週間の様子を書いてくださったので、ご紹介したい。

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