1892年 リトグラフ
京都工芸繊維大学美術工芸資料館
展覧会「ロートレック・コネクション」が渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムで2009年12月23日まで開催されている。人間の本質を独自の手法で描いたロートレックのこだわり、後世に名を残す画家が育つ環境と時代性などについてBunkamura ザ・ミュージアム プロデューサーであり、共立女子大学名誉教授の木島俊介氏に聞いた。
――ロートレックが生きた19世紀末のフランスは、ゴッホやゴーギャン、ルノワールなど後世に名を残す画家が数多く生まれました。何かきっかけはあったのでしょうか?
木島氏:当時のフランスでは、サロン文化が発達していました。有閑マダムたちが画家や小説家など、文化人を自宅に招くのです。ロートレックが通っていたナタンソン家のサロンもその一つでした。その中心的存在だったミシアという美しい女主人は、ロートレックをはじめルノワール、ボナールなど、画家たちの絵のモデルを務めています。ミシアはココ・シャネルを育て、ジャン・コクトーのスポンサーでもありました。
人が成長していくのに一番大事なのは、人々が集まり、直接的な付き合いを深めていくことです。画家たちはサロンという場で、感性を磨いたのだと思います。今のお金持ちは出来上がった作品は買うけれども、作り手を育てる、ということはあまりないのではないでしょうか。
《シャ・ノワール巡業公演》 1896年 リトグラフ 川崎市市民ミュージアム
――伯爵家の長男だったロートレックが画家となり、モンマルトルの歓楽街でダンスホールや劇場のダンサーたちを描き続けたのは、やはり少年期に両脚の成長が止まるという不幸が原因なのでしょうか。また、絵画よりも低いものとして位置づけられていたポスター制作を行ったのは、なぜでしょう?
木島氏:伯爵家の人間が当時底辺の存在だった画家の道を選んだのは、人よりも身長が極端に低い、ということが大きく影響しているでしょう。けれども、ロートレックは決して卑屈になってはいませんでした。モンマルトルではゴッホやベルナール、スタンランなど多くの友人に囲まれています。当時、ミュシャなどの画家は生活するためにポスターを制作していましたが、ロートレックは裕福な家の出身なので、食べるものに困っていたわけではありません。ロートレックの場合は、画家という職業に執着していたのではなく、自分の求める作品をつくりたかった。そこに強いこだわりがあったのでしょう。