ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年12月14日

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 普天間基地移設問題の迷走が続いています。鳩山由紀夫首相は問題決着を先送りし、新たな移転先候補の検討を指示。日米合意の早期履行を求める米国との関係に悪影響を及ぼしているとの懸念が出ています。

 各紙の報道で指摘されているのは、連立する小政党への遠慮です。党の存立に関わる問題として、県外移設を譲れない社会党を、亀井静香金融・郵政相は「外務省がアメリカと話して、結論を出そうとしても、社民党と国民新党が了解しなければ、絵に描いた餅」と援護しました。郵政、モラトリアムに続き、亀井君は強烈な存在感を示しています。

 亀井君が沖縄問題、基地問題をどう捉えているのか、話をしたことがないのでまったく知りませんが、同じ時代を生きた同窓生として、私たちの世代が抱いている「戦争」や「米国」に対する複雑な気持ちについては、みなさんに多少は紹介できます。

「戦争」「原爆」を忘れることはできない私たちの世代

 前回に引き続き、週刊ポストの記事の引用から始めたいと思います(11月13日発売号、山藤章一郎と本誌取材班「亀井静香『モラトリアム』を提案する原風景はこの集落にあった」)。

  広島県庄原市の川北町須川という村。川に這い寄るわずかな耕地を、いのしし対策の感電柵がめぐり、近在に1軒だった雑貨屋は無人になり、「国民新党綿貫代表」のポスターの裾が風にはたかれている。道路端、山裾をひらいて建つ赤い瓦屋根の大臣の生家は、改修を重ねたのか堂々としている。
  近所の人に管理をまかせて無人。表札は父「亀井素一」。
  小さい庭に、歌碑が立つ。
  「白血球 測る晩夏の 渇きかな」広島に近い町の高等女学校で被爆した姉の知恵子の歌である。
  (中略)
  しーちゃんたちは、その時刻、校庭で芋を植えていた。山の向こうで閃光がし、地響きが聞こえた。<筆者注:しーちゃんは、亀井君の子供のころの愛称。その時刻とは1945年8月6日、広島市に原爆が投下された時>

 8月6日の広島に続き、米国は8月9日、長崎にも原爆を投下しました。そして1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争終戦となりました。

 このとき、私(9歳)は、母(49歳)、姉(23歳)とともに長野高等女学校(現在の西高)前に疎開、父(62歳)は埼玉県鴻巣で農業、長兄・賢治(26歳)は群馬県新治郡で東京学芸大学附属大泉小学校の教師として学童疎開、もう一人の次兄・功(20歳)は群馬県の前橋市の前橋士官学校で少尉でした。

 このコラムの第11回で書きましたが、姉の許嫁(いいなずけ、30歳)は、長兄・賢治の豊島師範学校時代の同級生でしたが、回り道をした苦労人で広島文理科大学(現・広島大学)の学生でした。8月6日のその日、爆心地から数百メートルの大学校舎にいました。原爆が広島に落ちたのをその後伝え聞いた姉は、長野の疎開先で泣き崩れていました。

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